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この一週間というもの、ありとあらゆる不幸が小国真雪に降り注いでいた。
月曜日スーパーに行ったら鞄をひったくられた。
なんと間の悪い事件か、買い物カートを引っ張りだそうとした隙を狙って力づくで毟り取られた。
「犯人に隙を見せたから……」
「えっと……はい、その、お手数おかけしました……」
事情調書と書く警察にそう言われてしまい、真雪は返す言葉も無かった。彼女は元々小柄で確かに犯人からすれば狙い易いのだろう。
「もっと治安のいい所を選ばないと」
「はぁ。……あの、スマホとか戻ってきますかね」
「一概にはお答えできかねます」
被害届を出し終わって、最後の一言を警察官に添えられた。仕方なかったと無理やり自分を納得させて彼女は帰路に着く。
火曜日に給湯器が壊れた。
「冷たっ」
慌ててアパート会社に電話すると眠たげな声のスタッフが対応してくれた。
「そういうのは大家さんに報告してもらってください」
真雪が次の語句を選ぶ前ににべもなく電話は切られ、彼女は一階の大家宅のチャイムを押す。心まで寒くなりそうな冷えた夜の出来事だ。夜中にいきなり連絡するのは迷惑だと充分わかっているが湯が出なくてはこちらも風邪を引いてしまう。
「そういうのはアパート会社に任せてあるからねぇ」
「で、でも」
「こんな真夜中に不謹慎な……」
「すいません、あの、あのっ」
真雪の声も空しくインターフォンは切れ、耳が痛くなる静寂が訪れた。
「銭湯行こう……」
水曜日から銭湯通いを始めるが盗撮被害に遭い。
「あのこれあなたですね」
「──……はい」
銭湯を出たところでいきなり私服警官に呼び止められた、そしてあれよあれよと写真を突き出され覗き込むと下着姿の自分が居る。
真雪は顔から火が噴き出ると感じ、どろどろとした恨み辛みが口から零れ出そうにもなったが慌てて口を噤む。被害者に悪意や腹案をもって行動しているわけでは無いと理解していても、明け透けな行動であられもない姿の自分を晒されるのは苦痛だった。
「でも、事件解決しなきゃだから、しょうがないよね……」
この近辺唯一の銭湯だったが真雪はもうここを利用する気にはなれなかった。
木曜日にいじめっ子の同級生が尋ねて来た。
「ひさしぶりぃ、マユキちゃん」
「えっ?!」
口から心臓が飛び出るかと思った。女子グループのリーダー格だった人物がひょっこり現れたのだから然もありなん。
玄関のドアを開ける寸前に肩を叩かれ、振り返ると六年ぶりに見る顔が目前にあった。彼女には住所を教えていないし別段仲の良い友達でもない。聞けば住所を偶然知ったから、と説明された。
「ご飯食べに行こうよ」
半ば強引にファミレスに誘われて、一方的にお喋りをされ結局帰れたのは深夜一時を回った頃だった。頭痛がする。風邪の引き始めかもしれないと彼女は重たい重たいため息を漏らした。
金曜日にその同級生に謎の勧誘を受けた。
昨日に引き続きまたファミレスに誘われた。付いていけば何故かたどり着いたボックス席には先客のマダムが居り、同級生は当たり前のように先客の隣に座る。
「”ファルテス”と”アルクェス”の問題ってあるじゃない?」
「大変だよ、ね……その、私は”ノーマル”だから詳しくないけど……」
「だよね! だからセミナーでそういうのを勉強して役立てようって取り組みが今さ、話題になってるの」
「そう、なの……?」
風邪ぎみなのであれこれ言われても頭に入ってこず、深夜二時を越えた辺りで聞くに徹していたマダムが「仕方ないわね」と言い、開放してくれた。大量の資料が入った袋を押し付けられてよろつきながら真雪は帰宅する。
土曜日に熱を出し。
日曜日は怒り狂った隣人に絡まれた。
「こないだから深夜にごそごそとうるせえんだよ!」
「すいません……」
大家に深夜に会いに行ったことと真夜中の同級生訪問のことだろう。真雪は半ば途方にくれながら、こめ付バッタのように頭を下げる。胸の内が重苦しく湿るような気分になったが自分に非があると、彼女は隣人の気がすむまで怒声を浴び続けるのだった。
てゅりゃ、てゅりゃ、てゅりゃ。一週間の歌が頭を過ぎる。
トチ狂ったように踊りだしても可笑しくないとはゼミの先輩からの一言でとびきり憐憫の情が含まれた一言に真雪はしょんぼりと肩を落としたものだ。
どうも昔から病気がちで間が悪い所為か、こういう目によく遭遇してしまう。
これだけ不幸のどん底ならば後は上昇するだけだ──と運気に微かな希望を見出して、何とか大学に通っていた。運動サークルのシャワールームを使いたいと無理を言って貸してもらい、勧誘を続ける同級生に会わないよう深夜に帰宅した。
「小国さん、少し時間をいただけるかな?」
「は、はい……!」
「講義は今日もう終わり?」
「はい全然大丈夫です」
週は飛んで次の金曜日、午後五時五十五分、てゅらてゅらてゅら、目の前には真雪が敬愛する阿木山教授。ゼミの片づけが終わる頃教授に声を掛けられ、彼女は世界が薔薇色に染まった心地になっていた。
──ようやく不幸から脱却するのでは? と諸手を挙げて彼女は走り出したい気持ちを抑える。
「はは、散らかっているけれど気にしないでくれ。いや……ははは、若い子を招待するならもっと掃除をしておけばよかったかな」
「いえいえ、いえ……大丈夫です、ぜんぜん綺麗ですよ」
西日が差し込む教授の個人的な研究室に真雪は通される。いそいそとロマンスグレーはハーブティを淹れ、室内はその上品な香りに満たされていった。
「カモミールは平気かな?」
「好きな香りです、ありがとうございます」
「珈琲はキミの方が淹れるの得意だからね、駄目だしを受けないように僕はハーブに逃げてしまうんだよ」
「あはは、先生も紅茶淹れるのお上手じゃないですか」
老紳士という名詞が服を着て喋っている──そんな人間が阿木山という教授だった。程よく柔らかい声音に落ち着いた物腰、清潔でしわひとつ無いシャツを着こなし──真雪が腰掛けようとするものならスマートに椅子を引いてくれる。まさに紳士の鑑。
「更科君から聞いたよ、なんでもプライベートが大変なんだとか」
「あ……その、はい」
向かい合って座り、真雪は頬に熱が灯ったのを感じていた。てゅりゃてゅりゃ、と自分を哀れんだ先輩はしっかりと教授にも真雪の不幸を伝えていたらしい。──恥ずかしい、こんな情けないエピソードをよりにもよって憧れの教授に知られてしまうとは、と真雪はもじもじとカップを弄くる。
「女性にこういう質問をしては、その。失礼だとは重々承知しているが……今どうやって生活しているのかな……?」
いち学生にここまで心を砕いてくれる教授など彼をおいて他に誰がいるというのだろう。目じりを下げた教授に真雪は「なんとか」となるべく軽い口調で答えるのだった。
「ええと……引ったくりに会いましたけど、銀行カードは持ってきてなくて無事だったのでなんとか」
「スマホとかは?」
「すぐに解約しました。バイトして、お金溜まったら新しいのを買おうかと」
「個人情報を抜かれていなければいいが……」
「あはは……カード情報とか入れてないので、ひとまずは」
こくり、とカモミールを一口飲んで真雪はカップの淵を玩ぶ。
「シャワールームを借りている、というのを更科君から聞いてね、僕は。今のとはまた別件なのかな?」
「あー……はい、アパートの給湯器が壊れちゃってお湯が出ないんです。銭湯に通おうと思ってたんですけど痴漢騒ぎが起こりまして」
「おや……」
「結局サークルの子に無理を言ってシャワールーム貸してもらってます」
「キミの住んでるところは確か」
「東区です」
「あぁあの辺ならしょうがない」
とうとう苦笑してしまった教授に真雪も釣られて笑みを浮かべる。
「同性の友達には相談したのかな」
「最初は相談してお風呂借りたりしたんですが何回もとはいきませんし」
「それもそうか……なんなら僕の家の風呂をを貸してあげようか?」
「いえいえいえ! ただでさえ先生にはお世話になりっぱなしなのにこれ以上はご迷惑かけられません……!」
気軽に提案されたがしかし、阿木山は既婚者で変な噂……不倫の噂でも立てば迷惑が掛かるのは目に見えていた。
「小国さんは真面目だし迷惑を掛けられたと思った事はないよ」
教授は首を傾げ記憶を掘り返し始めていたが、真雪は「今だって話を聞いてもらっています」と肩を落とした。
「……ゼミで失敗した時フォローしてくださった事もありましたし、他にも。地質調査に行った時も怪我をしそうになった時助けてくださいましたし……先生にとって些細な事かもしれませんけど、私は本当に、その……」
先程までとはまた違う照れくささが真雪を苛む。友愛でも敬愛でも思いの丈を打ち明けるのは喉がすっかり渇いてしまうし、言葉がつっかえてしまうのも致し方ない。
お父さんに日頃の感謝を述べる時の感覚に近い。いや、彼の場合は親戚の叔父さん辺りのポジションだろうか? 幼心に「お嫁さんになる!」なんて両親達を大いに笑わせて、酒の席で未だに話の種にされるような透明な感情に近いものを真雪は阿木山という男に向けていた。
「いやぁ若いね」
「あのなんか、ほんと、すいませんっ」
「悪い意味で言ったんじゃないよ、小国さんは本当に真面目で良い子だ。若い内に出会っていたらきっとジャン・コクトーみたいに詩を書きまくって、キミにプレゼントしていただろうね」
「え、へへ……へへへ……」
しどろもどろに真雪は汗ばんだ手のままカモミールに手を伸ばしたが──その手はカップにたどり着く前に教授の両手に包まれていた。
「せ、せんせい……?」
手を握られるのは初めてではない、だがこんなにも感情が込ったものは初めてだった。
「キミと握手するのは初めての講義ぶり、だね」
「えあ、はい……ハイ」
最初から阿木山という男は他の教授達と一線を隔していた。ゼミ生が集まった初日「キミ達と信頼関係を結びたいんだ」と片手を差し出したのは今でも真雪の記憶に鮮烈に残っている。
ロマンスグレーの微笑みを添えた、となれば少なくとも真雪達ゼミ生は断る理由など何一つ無かった。
「よく覚えていらっしゃいますね」
「モットーだからね」
おどけた明るい声はユーモラスを含んでいて彼の人となりを表しているようだった。講義でもそうだ、毎回部屋にユニークなグッズを持ち込んでは身振り手振りで説明し、学生の質問があれば……例え講義内容に関係無くても、すぐさま皆を外に連れ出して実験を始めてしまう。
「何事においても教わる、学ぶ、という関係は信頼度に拠って大きく左右されるものだ」
「先生がよく講義でも説明されてますよね。あの、けど、手……」
「小国さん」
「は、はい?」
「改めて……になるが私に出来ることならば何でも言ってくれ。キミは私にとって特別な学生なのだから」
「っ、その、ありがとうございます」
シェイクハンドされた手は汗ばんで教授に引かれないかしら、と混乱する脳みそで真雪は考えていた。なんという幸せだろうか、憧憬を向ける教授から『特別』だなんて言葉を貰える日が来るとは夢にも思わなかった。
きっとあのどん底の一週間はこの日の為に運気を貯蓄していただけだったのだ、と真雪は希望を見出していた。
「キミが僕にとって特別な学生であるように、僕がキミにとって特別な教授であってほしい……というのは我侭だろうか?」
「いいえっ、そんな」
真雪の心はいよいよ新雪のようにふわふわと飛んでいきそうだった。一緒に実験するのだろうか、それともまたゼミの皆で調査に出掛けるのだろうか、きっと奥さんにまた旅行気分で学生を連れてって! とぷりぷり怒られるかもしれない、てゅりゃ、てゅりゃ、てゅりゃ。彼女の脳みその中では少女と少女がダンスを踊っていた。
「あぁ……そうだね、さっきの話。ジャン・コクトーの話をしたろう?」
「ええ、はい」
「僕はね、老いた今でも小国さんに詩を編んで贈りたいと……願っているよ」
流れるように言葉を操る教授にしては珍しく言いよどんでいる。
「ははは、そんな事を言ったら奥さんに怒られちゃいますよ」
「なら二人だけの秘密にしよう」
「そ、う……は言っても……」
真雪はこの時ようやく阿木山の雰囲気が変わったのを感じた。静かなロマンスグレーにひと匙の熱が加えられた、とでも言語かすればいいのか──老紳士の眼差しは熱っぽい。
「小国さん。……あぁ、どうか真雪さんと呼ばせてくれないだろうか?」
「どういう、その……うまく言えないんですけど、どういう意味で、ですか」
研究室は既に西日が似合う穏やかな雰囲気では無くなっていた。
じっとりとした熱を女に受け取って欲しい、そんな願いを持て余す男がいる薄暗く排他的な空気だ。いつの間にか日は傾き、西日は消え……部屋は日陰の陰鬱さに包まれていた。
てゅりゃ、てゅりゃ。脳内の少女と少女が怪訝な眼差しでこちらを眺めているような気分だ。明らかに場の気温が下がったと真雪は不安を押し殺し教授の顔色を伺う。
「最初からキミを特別な目で、見ていたのは事実だ……キミには複雑な事情があったから」
「ふ、ふくざつな? 私、特に変わった謂れなんてない一般家庭の一般人、ですけど……」
「キミが知らなくても真雪さんは特別なんだ。それでも僕は他の学生と変わらないよう接そうと決めた。僕のポリシーだからだ。大切な学生だし、そういう研究対象としてこんな……可愛らしい人を見たくは無かった」
「先生、阿木山先生、おちついてください……!」
「だが特別に見ないように、と考えれば考えるほどキミの事で頭がいっぱいになって……気がつけば僕は青春時代に持て余していたような、熱い心を、真雪さんに抱くようになってしまった」
阿木山はいまだ握り締めた真雪の手をぐいっと引いた。老紳士もまたテーブルから身を乗り出して前につんのめる小さな体を抱きとめるとその柳腰に反対の手を回す。
「せんせい、止めてください! 離して……!」
「こんなに小さくて……か弱いのに。──あの男に渡してなるものか──!」
真雪には皆目検討付かない。意味不明な羅列ばかり並び、平素からはかけ離れ切ってしまった教授は耳を傾けてくれない。そのどちらもがそら恐ろしく真雪は身を捩り何とか抜け出そうと試みる。
「う、わあっ」
カシャンとティーカップが割れる音と重なって彼女の悲鳴も研究室に響いた。テーブルに押し倒されて覆いかぶさってくる──切なそうにしている老紳士、いや、ひとりの男が真雪を見おろしていた。
──これは、いけない。
真雪は頭から血の気が下がる。身の危険と、そして敬愛する筈の人間に向けるようなものではない、感情を……嫌悪と恐怖で心をいっぱいにした。
逃げなくては、逃げなくては、と必死で考えるが思考は纏まらず闇雲に腕は空をさすらう。
「おちついて、こんなことしないで」
「安心してほしい真雪さん。悪いようにはしないから。この後の事は任せてほしい、キミの身は僕が引き受けよう。新しい住まいも用意するし、誹謗中傷からも守ってみせる……キミの珈琲も毎日飲みたいよ」
男の妄言と切って捨てられる独りよがりが真雪の訴えをかき消していく。彼女の片腕はテーブルに押さえつけられ時間を追うごとに自由が奪われていった。
──逃げなくては。
真雪は唯一動く利き手を伸ばす。
「妻とは別れるから……」
その言葉は胸を衝いた。あぁ、なんたる身勝手な人。きらきらと壇上で輝く一番星だった人が、抑圧していたエゴをむき出しにしてくる姿は恐ろしくもあった。
教授が発する言葉を理解するよりも早く真雪の指がこつんと固いものに触れた。それが何か彼女は確認する時間も惜しく──それを鷲掴み教授の頭めがけて勢いよく、投げる。
「──!」
確かぎゃあ、だったか。それともうわあ、だったか。阿木山はそんな声を上げて飛びのいていた。液体がまき散らされていく視界に陶器が割れる音……無残にも砕け散ったティーポットに見向きもしないで真雪は走り出していた。荷物をほったらかしにして、乱れた服もそのままに、ドアを押し開け、駆けた。
走って、走って、建物を出て、すれ違う人間にぶつかりそうになっても謝る余裕もなく真雪は走る。リノリウムの床を蹴り上げ、芝生を無遠慮に汚し、お気に入りのスニーカーはぐちゃぐちゃの心に応じたように泥まみれになっていた。
心臓が苦しい、こんなに走ったのは久しぶりだ。いやそれだけではない、心臓の奥にある心も痛い。頭も酷く痛む、いつもの持病だけれど今日は特に酷い。どうして、阿木山先生、先生が何を伝えたいのかこれっぽっちも分からない──迷いを振り払おうと、無茶をして足を動かすが煩わしい感情は体にこびり付いたままだ。感情が吐露して、視界は涙で濡れていた。
失望しただとか、キモチガワルイだとかではない。永遠性を感じていたアイドルがただの人間になってしまった──勝手に神格化していたものがただのヒトであったと、これ以上ない悪手で認識してしまったパニックに真雪は襲われていた。
エゴの塊を抱えていたのは自分もだ。
この気持ち悪さは自己の否定だ、アイデンティティが欠けて落ちた音がする。
先生に手を上げてしまった、憧憬の存在に。
今は何も見たくない、何も聞きたくない、黒い気持ちのまま暗闇に沈みたい。どこか深海の底にすっぽり沈んで永遠に閉じこもり、極彩色から隔絶された世界に独りでいたい。
冷たい体と冷たい土はさぞや相性がいいだろう──
「真雪ッ!」
「……ぇ」
途端に名前を呼ばれ──それも知らない声だ──そして、顔に土埃が掛かり、辺りは排気ガスの臭いが充満していた。
そうか、車が──
気が付いた時には目の前に自動車が迫っていた。ブレーキ音がけたたましく鳴り響くが真雪は反応に追いつけず、他人事のようにぼおっと眺めるしかできなかった。走馬燈も見る暇が無い、轢かれて死ぬ。その事実が真雪には待っていた。
「真雪……!」
再び知らない声が名前を呼んだ。今度はすぐ近くで、耳のすぐ傍でだ。誰かが自分を抱き締めたのだと把握できたのは、地面に倒れ込んだ後だった。酷い衝撃に痛む頭が更に軋み、眩暈まで起こる。
「あァ、お互い生きててラッキーだったなお嬢さん」
助けてくれたのは男だった。目がかすむので姿は見て取れないが声は……低く、それなりに歳を重ねたバリトンだ。しかし彼女はそれ以上考える余裕が無かった。
「あたま、頭がくらくら……する」
「大丈夫か?」
バリトンボイスが背中をさするが、余裕の無い彼女は体を丸めて口元を押さえていた。お互い地面に座り込んで周りから注目の的になっているのだが……真雪は勿論、男もそんなものは二の次であった。
「う、うぇ」
助ける為とはいえ真雪が受けたのはすさまじいタックルだった、だからだろうか、頭もしこたま打ち付けたのか……ガンガンと頭痛の酷さは増して、彼女は顔を顰めていた。
「おい大丈夫か? 顔が真っ白だ」
「いたい、あたまが──!」
とうとう真雪は脂汗まで浮かべて身を捩る、意識を失っては駄目だ。阿木山が来る……! と立ちあがろうとしても、足に力が入らない。
「たすけて、くれて……ありがとう、ござ」
「喋るな。辛いだろう」
視界が不意に高くなって真雪はひょい、と抱え上げられたのがわかった。見ず知らずの男だったが身動きの取れなくなりつつある真雪は選択肢がもう無く、うわ言を呟くしかできない。
何もかもが体から欠け落ちていく気分だった。
男が抱き留めてくれたお陰で体だけは現世に残っているが、それ以外は全部暗がりの闇にぽろり、ぽろり、と落ちていく。絵本のような輝かしい大学生活の一頁が消え、一週間の苦労を耐えた彼女の努力もあっさり溶けた。残ったのは抜け殻だ。かさかさの声で真雪は一言を搾り出した。
「たすけて」
「わかった」
随分と奇特な男だ。涙でぐちゃぐちゃになった娘を轢かれる運命から救ったばかりか二つ返事で気が遠くなるような願いに頷いたのだから、余程の奇人か変人かそれとも聖人か。人でなければ怪物だろう。
「俺はお前のモンだからなァ」
辛うじて聞こえたのはそれだけだ。真雪はそれ以上聞くことも無く意識を手放し温かいと感じる腕の中で目を閉じてしまった。
冷たい海に沈むでもなく、夕暮れの空に溶けるでもなく、真雪は男に抱えられ夜が次第に訪れる町の中に消えていった。
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