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01 美女とクズ
「冷蔵庫にあった私のアイス食べただろう」
それは死刑宣告だった。真っ黒な髪を一つに結った美女が、一歩一歩こちらに近づいてくる。二十代半ばの男――猪瀬光毅は、目の前に迫る死の化身から逃れようと一歩後ずさった。
しかし、その背中は無情にも壁にぶち当たる。
背の高いピンヒールを履いた女性――舞木通子は猪瀬の顔の真横に腕を突いた。
あ、壁ドンだ。現実逃避気味にそんなことを考えていると、真っ赤なルージュを塗った唇が顔に触れそうなほど近づいてくる。
「ごめんなさいしたら手加減してやってもいいんだよ、猪瀬の坊や」
その囁き声に腰の奥底から震えが上ってくる。これは恐怖からくるものなのか、それとも。
猪瀬はそれに気づかないふりをして、舞木を睨みつけた。
「うるせえババア!!」
ヤクザをも黙らせる、彼女の平手が勢いよく飛んだ。
まあ、結論から言うと抱かれた。それも後ろからだ。
やることをやった後、舞木は悠長にタバコをふかしている。腰の痛みをこらえながら、猪瀬はベッドから起き上がった。
「ババア、ここ禁煙だぞ」
「おや。うちに居候している分際で、禁煙の有無を決められるとは大した了見だね」
舞木は振り向くと、猪瀬の顔にふーっと煙を吹きかけた。
「うえっ、げほっ、テメェ覚えてろよ」
「覚えてろ? 君のベッド事情についてかい?」
「ちっげーよ! この鬼畜! 悪魔!」
「ふふん、そんなに褒めてくれるなよ」
タバコ特有のバニラにも似た甘いにおいが、猪瀬にまとわりついてくる。猪瀬は舞木に手を伸ばした。
「おい、一本寄越せ」
「君ってやつは本当に図々しいね。ほら」
彼女は猪瀬にタバコの箱を投げてやる。一箱千円近くする高級品だ。
「……ライターどこだよ」
「火ならここにあるじゃないか」
舞木は自分のくわえたタバコをぴこぴこ上下に動かした。
猪瀬は嫌そうな顔をしながら、彼女のタバコに自分のタバコの先をつける。深く吸い込むと、吸い始めの紫煙が口内へと広がった。
肺まで入れた煙をフーッと長く吐き出す。
「……で?」
「ん?」
「今度はどんな厄介ごとに巻き込まれてんだよ」
「ふふ、何のことだい?」
タバコを徐々に短くさせながら舞木は言う。猪瀬は小さく舌打ちをした。
「とぼけんじゃねえよ。あんなねちっこい責め方する時は絶対面倒なことになってるじゃねえかクソババア」
言葉にすると、体の奥の違和感が強まった気がする。猪瀬は顔をしかめながら、舞木からちょっと離れた床に座り込んだ。舞木はにまーっと笑みを深めてきた。
「おやおやおや。ついに自分から手駒になるのを志願してくれるようになったとは。嬉しい反面寂しくもあるね」
「ちっげーーーよ! ただの諦めだボケ!」
舞木はベッドから立ち上がると、床にあぐらをかく猪瀬の股を軽く踏みつけた。足の指で海綿体がぐにっと圧迫される。
「実は昨日、上から降りてきた案件がさあ」
「足どけろよクソ……」
「んー聞こえないねえ」
すっとぼけながら、彼女は猪瀬のモノをぐりぐりと地面に押し付けてくる。
こいつがゴリラだということは分かっている。いくら反抗したいとしても、加減を見極めなければ最悪使い物にならなくされることも――
「あ、足が滑った」
「ぎぃ!!」
足の裏でソレをしっかりと踏まれたまま猪瀬は悶絶する。涙目になりながら部屋中に響き渡る大声で叫んだ。
「なんで踏みやがった!」
「今、失礼なこと思われた気がして……」
「このゴリラァ!!」
ぐりっとさらに踏みつけられ、前かがみになる。
「ほんとふざけんなよクソババア……」
「失礼な。年齢不詳といいなさい」
「うぐぃぃ……」
唸り声が歯の隙間から漏れる。
「今回のは、本当に面倒なんだよねえ。もう二、三人血を流せば自然と解決するんじゃないかな」
その言いぶりから見るに、どうやら死人も出ている事件らしい。彼女にとってはどうでもいいことのようだが。
「チッ、それでも刑事かよ」
「君もそれでも探偵なのかい?」
舞木はようやく猪瀬から足を離す。猪瀬はじんわりと浮かんでしまった汗をそのままに、精一杯の虚勢で言った。
「ア? 探偵じゃなかったら何だっていうんだよ」
彼女は首をかしげると、細い指で猪瀬の顎をくいっと持ち上げた。
「私のヒモだろう?」
猪瀬は否定できなかった。
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