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「――ああ、やっと見つけたよ!」
朝になり、表通りからかすかにざわめきが届くと、歩はのろのろと顔をあげた。
早起きな職人が仕事に出ているようで、おおきな荷車を引く姿が見えた。白い霧はそのままだけれど、雨は止んでいた。
杏奈は最後に見た姿勢のままだ。膝に顔を埋めたまま、ぴくりとも動かない。昨日はたまらなく嫌なことがあったんだ。そのままにしておいてあげようと思った。
腕に張り付いている乾いた土を剥がしながら、冷え切って怠い身体を持ち上げていると、通りから呼びかけてくる声があった。
「こんなところにいたのかい。探したんだよ!」
家の隙間から顔を覗かせているのは、宿の女主人だった。女主人は昨夜見た寝間着から、茶けたシャツと前掛けに着替えていた。
「……なんの用ですか?」
「荷物! あんたらの荷物だよ。置いていったろ? 取りに来いって伝えに来たのさ。あーあ、こんな冷たくなっちまって!」
女主人は心底心配しているような顔で、手にしていた布で杏奈の頭を拭い始めた。杏奈はされるがままだ。服の水気まで擦るように払いながら女主人が言った。
「あいつらのことなら心配いらないよ。部屋でノビているところをふん縛ってやったからね。旦那に連れていかれたから、いまごろ城の牢屋で泣いている頃さ。――いや、悪かったよ。まさかあんなバカどもが堂々と店にやってくるとは思わなくてね。まったく、油断していたよ。お詫びに朝のご飯を奢らせておくれ。お腹減ってるだろ。どうだい?」
……信じていいのだろうか? 殴らないからと言って近寄ってくる隆也と同じ、怪しいじゃないか。それにこの女主人は、大人だ。大人は信じられない。
妙に優しい女主人に歩は警戒心を緩めず睨み続けた。
この人があの男たちを手引きした共犯者ということはないだろうか? あの手この手で騙してなにも知らない旅行客から荷物を頂戴するのだ。ありそうじゃないか。
しかし共犯者であるならば、こうして堂々と会いに来るだろうか?
歩が答えに困っていると、黙っていた杏奈が顔を上げた。すっかり疲れ切ったその顔は土気色で、目の下にはひどい隈ができていた。
「……信じていいと思うわよ。ご飯もつまり口止め料なのよ。お客が強盗に襲われたなんて、宿からしてみればうちは安全じゃありませんって宣伝してるようなものでしょ? オオゴトよ。わたしたちがそこの通りで昨日あったことを演説してみなさい、お客はみんな近寄らなくなるわよ。だからこの人はわたしたちと仲良くしておきたいのよ」
「おや、言ってくれるね。」
女主人は、杏奈の髪を拭きながら、からかうように笑った。
「その話を誰が信じると思うんだい? わたしはここの住人だよ? わたしが、あんたらは嘘つきだと言ったら、みんなどっちにつくかね」
杏奈は顔を傾けて、女主人の顔を見上げると平然と返した。
「そのときは宿を調べてもらうだけです。ネックレスは”取られた”証拠になるでしょう?」
「……ま、そうだね」
「ねえ、遠藤くん。つまり、そういうことなのよ。この人がわたしたちと仲良くしたいのは、この人が損しないため。荷物を引き取りに来てほしいってわざわざ言いにきたのだって、後で騒がれたくないからなのよ」
杏奈の推理には、なるほどと唸らせる説得力があった。すくなくとも歩にはこの少女探偵の論理の解れを見いだせなかった。
杏奈を拭いてすっかり黒ずんだ布をポケットにしまいながら女主人が苦笑した。
「まあそれで納得できるなら、いいけどね。とにかく、どうするのさ。ついてくるのか、こないのか。早く決めるんだね」
「……じゃあ、ひとつだけ」歩は考えた末にこう答えた。「パンはふたつにしてください。あとスープはとても熱くしてください。……あの……僕たち丸一晩ここにいて、とてもお腹が減っているんです」
女主人が目を丸くしてから、にやりと笑った。
「あんたもなかなか図太いみたいだね。いいよ、わかった。パンふたつに熱々のスープだね。――ただし! スープが熱すぎて舌がバカになって、残してでもしたら許さないからね!」
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