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「必要なものを整理しましょ」という杏奈の提案で、歩と杏奈は分担して隆也たちの鞄を次々に開けることにした。
鞄の中はずいぶん個性的だった。
「こんなもの持ってくるから鞄が一杯になるのよ!」
大量のお菓子、マンガ本、替えの服が二着ずつ、ゲーム機、それからなぜか打ち上げ花火……。
隆也たちの鞄には余計な物が大量に詰め込まれていた。先生に点検されたら没収される物ばかりだ。
とはいえ緊急事の今は役立つものばかりだ。中でもなぜか入っていた懐中電灯は、わずかでも霧の先を明るく照らし、心を落ち着かせてくれた。
「やっぱり誰か来てくれるまで動かないほうがいいのかな」
杏奈が手鏡を取り出しながらささやいた。
「そうだね。こういうときは動かないほうがいいって言うしね。大丈夫だよ。みんな上にいるんだしさ。崖から落ちたことにすぐ気づいてくれるよ」
「でもきっと時間はかかるよね。あーあ、こんなことならお母さんにテレビ録っておくよう頼んどくんだった。ねえ、ジェニファー・トンプソンっていうアメリカの歌手知ってる? いま日本にライブツアーで来てるんだよね。その番組が今日の夜にあるのよ」
「いまからでも間に合うんじゃないの? お母さんに連絡すればさ。――そうだよ! 連絡!」
歩は思わず叫んでしまった。ゆかりでも、父親でもいい。崖から落ちたと伝えられれば助けがくるのが早まるじゃないか。なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだ!
そんな冴えた思いつきは、鏡で身だしなみをチェックして、うんざりした様子で髪の泥を落とす杏奈にあっさり否定された。
「それは無理だと思うわよ。ここまで電波届いてないみたいだから」
「ええ? 山にだって電話が必要な人はいるでしょ」
そんなバカな、と電話を取り出してみると、表面には確かに圏外の無慈悲な二文字が表示されていた。杏奈がそら見たことかと呆れた顔をした。
「さっきインスタに載せようと思っていじってたときに気づいたんだけどね。きっと電話をいじれないように、電波の届かない山を先生たちが選んだのよ。先生たちひどーいって騒いでたんだけど、気づかなかった?」
「ずっと注目なんてしないよ。ちょっと自意識過剰なんじゃない? イエスタデイ・ワンス・モアでも歌っていたなら気にしただろうけど」
「なあにそれ」
「知らない? 七十年代のポップミュージックの名曲。ジェニファー・トンプソンの新曲はイエスタデイ・ワンス・モアのアレンジだよ」
「はー、遠藤くんって変わったこと知ってるのね」
そうだろうか? 好きなアーティストのことなんだから、曲の由来を知らないほうが変わってないだろうか? 女子ってこんなもんなんだろうか。杏奈の感覚がよくわからなくて、歩は首を傾げた。
おにぎりで空腹を満たしている間、杏奈がいかにジェニファー・トンプソンがクールなアーティストか語ってくれた。おかげで、霧の向こうでがさがさ不穏な音がするまでに、杏奈とクラスの男女数名がこの夏休みにコンサートに行く計画を立てていることを歩は知ることになった。
「誰かいるの?」霧の先に杏奈が呼びかけるけど、返事はなかった。「いまのなに? わかる?」
「わからないけど、こっち! ほら、立って!」
歩は手早く荷物をまとめてその場を離れた。「待ってよ!」と杏奈も慌ててついてくる。
走りながら脳裏に浮かんだのは、修二先生の背中に張り付いていたあの虫だ。
あれは、なんだったんだろう。
八本の足があったし、きっと虫なんだろう。でもあんな大きさの虫なんているのだろうか?
それに、あれは確かに血を吸っていた。血を吸う虫なんて、ヒルか蚊くらいしか聞いたことがない。
修二先生は大丈夫だっただろうか。悲鳴が耳について離れない。歩はぶるりと身を震わせた。
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