第1章 霧の先へ

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 影はまさに神出鬼没(しんしゅつきぼつ)だった。 「あれ、どこいった?」 「見つけた! あっち!」  影はびっくりするほどすばしっこくて、(やぶ)の影にいたり、枝の上で跳ねていたり、かと思うと正面で「急がなくちゃ、急がなくちゃ!」と叫びながら遠ざかっていった。  ひとつ所に留まらないので、油断すると見失いそうになる。  おかげで散々に翻弄されて二人は、根っこに足を引っかけ、コケで滑り、汚らしい泥ダルマになった。 「もう、なんなのよ!」  白からカーキ色に変色したシャツの(すそ)を絞って水分を落としながら杏奈(あんな)憤慨(ふんがい)していた。 「絶対につかまえて話し聞いてやるんだから!」  泥だらけになりながら追いかけていると、影がついに走る速度を(ゆる)めた。  そこはへんてこな場所だった。  小さな広場に巨木がそびえているのだけど、その巨木の(ほら)にドアがついていた。  おまけに巨木には見事なキノコが生えていて、そこから白煙が吹き出している。あれはたぶん――煙突だ。きっと洒落たアフタヌーンティーを楽しむためにお湯を沸かしているにちがいない。  つまり、あそこにはなにかが住み着いているんだ。でもこんな森の奥深くに誰の家?  影はまっすぐ洞穴に飛び込んだ。ドアを閉める音がする。  すぐに歩たちもドアに張り付いた。 「ちょっと話を聞きたいんだけど。ねえ、ドアを開けてもらえないかしら!」  杏奈(あんな)が腰の高さまでのドアを強く叩いた。すると小さな覗き窓が開いた。  不機嫌そうな男の子の声が聞こえてきた。 「なんなの、なんの用?」 「あ!」歩は思わず叫んでしまった。「やっぱりウサギだ!」  小窓から覗くのは、まさにウサギだった。  特徴的な長い耳が翻り、黒豆のような目が光っている。  褐色の毛は少し泥に汚れている。  そこまでなら普通のウサギなのだけど、このウサギがちょっと変わっているのは、二本足で立ち、おまけに緑色のセーターを着ているのだ。  ウサギは不満そうに顔を歪めて――そう、人間みたいに顔を歪めてみせて「ウサギだって?」と吐き捨てるように言った。 「あんな野蛮(やぼん)なヤツらと一緒にして欲しくないね! ボクはね、他所様(よそさま)の家を勝手に乗っ取るような野蛮(やばん)なマネはしないんだよ! 話はそれだけ? それだけならもういいでしょ。それじゃあね、さようなら!」  一緒にして欲しくない? 君もウサギでしょ? 呆気(あっけ)に取られている間に、ウサギは覗き窓をぴしゃんと閉めてしまった。止める間もなかった。  杏奈(あんな)がまたドアを叩いた。先ほどより力が強いようでドアがミシミシと鳴った。 「ちょっと! まだなにも話してないでしょ! わたしたち迷子なの! 道知っていたら教えてよ!」 「――もう、もう、うるさいなあ!」覗き窓がまた開いて、ウサギが顔を覗かせた。 「ちょっと静かにしてよ! アロワーナに気づかれちゃうでしょ! ボクはね、キミたちと話すことなんてないの! わかる? だからキミたちはとっととどっか行ってよ!」  まったくの平行線。――とりあえず、アロワーナってなに? 歩がそう聞こうとしたところで、それは起きた。  遠くで凄まじい轟音――おそらく木が倒れる音がした。地面が揺れた。杏奈(あんな)がドア叩きをやめて「いまのなに?」と不安そうに辺りを見回した。 「もおおおおおお! ほら、やっぱり、ほらあああ!」  ウサギが怒り出した。  頭を掻きむしるので、毛玉がどんどん床に積もっていく。 「キミたちが騒ぐからアロワーナに気づかれたんだ! ここはアイツに気づかれない、静かで最高の場所だったのに! アイツがここまで来たらどうしてくれるんだよ! もおおおおお、キミたちほんとにどっか行ってよ!」  ウサギはまた覗き窓を閉めてしまった。  家の中でドタドタという足音が遠ざかっていく。どうやら家の奥に隠れようとしているらしい。  どぉんとまた轟音が響いた。それも少し近づいている気がする。  歩と杏奈(あんな)は顔を見合わせた。杏奈(あんな)の顔は「どうする?」と聞いていた。  アロワーナがなんなのかはさっぱりわからない。でもウサギの様子を見る限り――非常に厄介なものらしい。それなら、やることはひとつしかない。  歩はドアを叩いた。杏奈も両手で加勢した。 「ねえ、わたしたちも入れてよ! 危ないんでしょ!」  杏奈(あんな)が呼びかけるが、ウサギからの反応はない。どぉんがさらに近づいた。空気が震えた。 「開けてよ!」 「ねえ、君にはなにもしないから!」  ウサギは嵐が通り過ぎるまで、家の中にとじこもるつもりのようで、ドアを叩いても揺すっても返事をしない。  轟音(ごうおん)の間隔が短くなり、さらに振動で足が浮かぶようになったとき、杏奈(あんな)にいよいよ我慢の限界がきたようだ。  目を吊り上げて、歩が耳を塞がなければならないほどの大声で怒鳴りつけた。 「ちょっと、開けてって言ってるでしょ! そっちがその気ならわたしにも考えがあるからね! あなたがここを開けてくれるまで(さわ)ぎ続けてあげるから!」  その脅迫(きょうはく)じみた作戦は見事に成功した。固く閉ざされたドアが開いたのだ。顔を覗かせたウサギはやっぱり頭を掻きむしっていた。 「もおおおおおお! 騒ぎ続けるとか大迷惑だよ! もう、とっとと入って!」  開け放たれたドアからウサギの家に、歩と杏奈(あんな)は飛び込んだ。
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