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「ちっ! 起きてるじゃねえか! おい、起きてるぞ!」
そう喚くと、穴だらけで灰色のボロ布に身を包んだ男が、鼻息荒く走り寄ってきた。歩が誰と尋ねる間もなく、顔をめがけていきなり手が振り下ろされた。
手の先には、廊下の灯りをキラリと照り返す金属片が握られていた。刃物だ! 背中が泡立った。歩はベッドに腰かけたまま咄嗟に顔の前に腕を突き出した。
「っあ!」
腕に、熱した針を突き刺したような痛みが走った。頭がびりっと痺れる。
侵入者は傷つけただけでお終いにするつもりがないようで、また刃物が振りかざされた。
「おとなしくしろ!」
歩は必死に腕を伸ばした。とにかく刃物を止めないと! 腕と腕がぶつかって、ごつっと鈍い音が部屋に響いた。
もみ合いになるうちに、歩はずるりとベットから転がり落ちた。ちょうど侵入者の上に乗るような格好になる。抑え込もうと力を込めた。
「やめろ、この。――うげっ」
無我夢中だった。刃物の行方を巡って押し合っているうちに、歩の腕がつるりと滑っていた。勢いのついた拳は侵入者の顎にヒット。いい角度に入ったようで、侵入者はノックアウトした。
十秒待ってすっかりノビているのを確認してから、歩は侵入者の上から退いた。心臓がばくばくと痛いほど高鳴っていた。目はチカチカしている。
ぜーぜーと喘ぎながら、もう一度、侵入者の顔を覗いてみた。
男はやっぱり知らない顔だった。争っているうちは夢中で気づかなかったけど、ひどい臭いがする。街の浮浪者だろうか? そういえば、街に入ってずいぶん注目されていた。まさか、襲ってやろうと宿まで追ってきたとか? 嫌な想像にぶるりと身が震えた。
これから、どうしよう。まずは、女主人を叩き起こして侵入者を突き出して……。それから、気味悪がるだろうけど杏奈にも伝えて……。
でもあれ? ちょっと待てよ。なんか、変じゃないか。呼吸が落ち着き、頭に冷たい空気が回ってくると、おかしなことに気づいた。
こいつは部屋に入ってきたとき――なんて言っていた? そうだ、「起きてるじゃねえか! おい、起きてるぞ!」と言ってなかったか。あれは――他の誰かへの合図じゃないのか?
気づいた瞬間、身を起こして、向かいの部屋に飛びついた。声をかけるのももどかしくて、ノックをせずに勢いよく扉を開けた。そこでは――杏奈が知らない男に馬乗りにされていた。
「んーーーーー、んんーーーー!」
「くそ! 静かにしろ!」
口をふさがれた杏奈は勇猛に抵抗していた。
手にした枕を滅茶苦茶に振り回して、男の鼻や頬を容赦なく叩くもんだから、男の鼻から血が流れだしていた。男はふがふが言いながら凶器の枕を取り上げようとしている。ふたりとも歩の侵入には気づいていない。
歩は身を屈めてロケット砲のように突っ込んだ。危険なんて言葉は頭からすっ飛んでいた。頭が男の脇腹に刺さる。男が「ぐえっ」と苦悶の声を漏らした。そのままの勢いで壁に激突。衝撃で部屋が揺れた。
身を起こすと、寝転んだままの杏奈の視線があった。何も言わずに杏奈の腕を取って引っ張り起こし、そのまま部屋を飛び出した。杏奈はされるがまま、黙って付いてきた。
階段を駆け下りると、驚いた顔の女主人とばったり会った。ネグリジェのようなネズミ色の布を羽織っているところからすると、騒音に気付いて起きて来たらしい。
「おおきな音がしたけれど、あんたらこんな夜中になにしてんのさ。喧嘩? やめとくれよ。部屋の中の物壊したらタダじゃおかないからね。――おい、どこに行くつもりなんだい? 待ちなよ!」
呼びかけを無視して宿を飛び出した。雨はいっそう激しさを増していた。裸足で泥に浸かると、氷のような冷たさに痛みが走った。でも、止まっていられなかった。こんな場所に一瞬でも留まっていたくなかった。
宿の軒下を出ると、すぐにまた霧がやってきた。視界も、行き先も、真っ白だ。
霧の中を闇雲に走るが、すぐに体力が底をついた。息苦しくなって、足がもつれる。
もう進めない。家と家の小さな隙間を見つけて身を投げ入れた。濡れるのも気にせず地面に座ると、泥に元気が吸われていくみたいで動く気力がなくなった。
ずっと引っ張られるがままだった杏奈が、隣に力なくすとんと腰を下ろした。それから表情を消したまま声をこぼさずに泣き出した。歩はなにも言ってあげられなかった。
ほんと、ひどい一日じゃないか……。
歩と杏奈は肩を寄せて、辺りが白み始めるまで雨の中をじっと耐えていた。
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