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薄暗い宿に戻ると、女主人は歩と杏奈をまず風呂場に連れて行った。
「まずはお湯を浴びて綺麗になっておくれ。そのまんまじゃ部屋がどろどろになっちまうよ」
先に風呂場に入った杏奈はすっかりきれいさっぱりの身なりで、でもなんだか物足りなそうな顔で首を傾げながら風呂場から出てきた。
交代で木戸の仕切りをくぐってから、歩はすぐに杏奈の顔の理由を察した。風呂場には、ぬるま湯の入った瓶と木の桶があるだけで、石鹸や椅子もなく、くつろげる空間がなかったのだ。
頭からお湯を三回被ったら流れる水もたちまち透明になってすぐにやることがなくなった。さっさと風呂場を出て、玄関ホールに戻ると、女主人は約束のスープを作って待っていてくれた。
ぐつぐつ煮えたぎるスープの中身は、量は多いけど昨夜の物とだいたい一緒、筋肉とクズ野菜が中心だった。ひとつおおきく違うのは見慣れない赤褐色の石が入っている点だった。
「今日は店を休みにしたからね。あんたら以外、客は来ないからゆっくりしていいよ。さらにこれがご要望の熱いスープだよ。――ああ、そんな乱暴に扱うんじゃない! 危ないじゃないか」
椅子に腰かけながら女主人が鋭く注意するので、歩はびっくりして石を突いていたスプーンを止めた。
「あの……これはいったい全体なんの石ですか?」
「なんだい、ポルカノ石を知らないのかい。それは、中に火が詰まっている、この町特産の鉱石だよ。ちょっと衝撃を与えるだけで、夏の太陽より熱くなるからね。噛んだりした日には火傷じゃ済まないから注意しなよ。……しかし、ポルカノ石まで知らないとなると、旦那が言ってたとおり、本物の“霧の迷子”みたいだね」
「そう、それ!」恐る恐るスプーンを皿に入れていた杏奈が叫んだ。「わたしたち森のウサギにそう言われて、この町に来たの!」
「おやおや」女主人は大げさに驚いてみせた。「そりゃ大そう面倒なことに巻き込まれたみたいだね。愚痴を聞いてやりたいが、まずはお互いの自己紹介といこう。『あんた』のままじゃ誰を呼んでいるんだかわからないからね」
女主人はエルジと言い、旦那のランダとひとり娘のティタと三人で暮らしていると告げた。エルジがここで食事屋と宿を、ランダが鉱山で働いているらしい。
続けて歩と杏奈が名前を告げると、エルジは目を丸くしてひどく驚いた。
「名前! あんたら名前があるのかい! ――ああ、なんてこった!」
「名前があるといけないの?」
「もちろんさ! なんたって、この町は”名前を捨てた町”だからね」
天井を仰ぎ見ていたエルジがうめくように言った。
「この町にいる連中はみな、のっぴきならない訳あり事情があって他の街から移動してきていてね、そんとき必要ないものはすべて捨ててきてるんだよ。友人も、家具も、――それから名前もね。だからこの町でわざわざ名前を持っているなんて、ちょっと珍しいヤツなのさ。知られたら変なちょっかいを出してくるヤツが現れるかもしれない。……そうだね……よし、そうするしかないね。とにかく名前がないことにするのが一番だ……この町にいる間、あんたはただのアユムを名乗りな。あんたはアンナだ」
歩と杏奈はスープを飲む手を止めて顔を見合わせた。
家族以外にアユムと呼ばれるのは、ちょっとくすぐったくておかしな感じだった。
「そうしないとダメですか?」
「昨日みたいなことがまた起きてもいいなら、好きにするといいよ」
「……わかりました」
それから歩と杏奈は代わる代わるこれまでのことを話した。
ハイキングで霧に包まれたこと。おそろしい虫に会って足を滑らして崖に落ちてしまったこと。それから森でおかしなウサギに会ったこと。
ウサギから霧の王国に行くよう勧められたことを告げると、エルジは「霧の王国!」と叫んでお茶をぐいっと飲み干した。
「いやはや困ったね……。よりによって霧の国か……うーん……。もちろんね、行けないことはないんだよ。霧の国は、ニンゲンの国で一番か二番に豊かで、大きな国だからね。当然、道だってたくさんある。でもね、ここからだと、どれもちょっと一癖も二癖もある道なんだよ。……たとえば、いちばんの近道だとこの裏の鉱山を抜けた山道だね。二晩も山を歩けば霧の国に着くんだけど、問題は山の頂上付近では、炎の雨が降るんだよ」
「炎の……なんですって?」歩はパンをちぎっていた手を止めて、冷たい雨に打たれすぎて耳が取れたのかもしれないと思って聞き返した。
「炎の雨さ。水じゃなくて、炎がお空から落ちてくるんだよ。そんなんだから山のてっぺん付近は年中、山火事で燃え続けてるのさ。あんなところに好んで近づくなんて、火の木かヒクイドリくらいなもんだろうね。火でも燃えない丈夫なカサを持ってない限り近づくのはやめときな。……他には巨人の足跡なんて場所もある。ここはむかし巨人が酔っぱらって、うっかり地面を踏みぬいてできた大穴なんだけどね、そこを通ろうとしたら十日十晩かけて降りて、また同じだけ登らないといけないんだ。翼のあるヒトトリ族の連中なら楽な道なんだろうけど、わたしら飛べないニンゲンにはただただ大変でつまらないだけの崖登りさ。……もちろん、比較的、楽な道だってあるよ。川をさらに下っていったところにある運試しの沼なんてまさにそれさ。ここはいくつかの沼があるだけだから、越えようと思えば越えていける。ただね、ここの沼は底なしで、おまけに位置がころころ変わるんだよ。運が悪いと向かうのは、王国じゃないであの世になるよ」
「町のみなさんはどうやってここまで来たの? だってみんなどこかから来たのでしょう? なにか抜け道があるんじゃないの?」お茶に入っているまん丸太った芋虫に顔をしかめながら杏奈が聞いた。
「定期便があるのさ。月が三つ回るたびに沼を超える定期便がやってくるんだよ。……ただねえ」エルジが腕組をして渋い顔をした。「定期便は目玉が飛び出るほど高いんだ。この町の人たちがほとんど貧しいのはまさにそのせいさ。ここに来るまでに財産を使っちまうんだ。お金があれば定期便も考えられるが……あんたらはそのお金がなくて困ってるんだろ?」
まさにその通りだ。無償のご飯を食べていた杏奈が恥ずかしそうに顔を俯けてお茶に口をつけた。
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