第1章 霧の先へ

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 黒い雲に追い立てられて、歩は帰りを急いだ。東の空が絵の具を垂らしたみたいに、茜色からねずみ色に染まっている。そういえば、今朝の天気予報では夜から雨が降り出すと言っていた。  家まであとすこしの上り坂までやってくると、遠藤ゆかりの後ろ姿を見つけた。右手で杖をつき、左手に満載の買い物袋を持ち、いまにも倒れそうなほどよたよたと歩いている。歩は慌てて駆け寄った。 「ゆかり!」 「歩? あれ、今日は遅くなるんじゃなかったの?」  ゆかりが驚きで黒目をぱちぱちと瞬かせた。ニ歳年上の姉を歩はにらみつけた。 「用事はもう終わったよ。それよりどうして外にいるの? 帰ったら僕が買い物に行くって言ったじゃないか!」 「だって、ほら見て、これから雨よ。わたしはほとんど一日家にいるんだし、わたしが買いに行った方がずっと合理的でしょ」  こんなにステキな考えはありません、とゆかりは本気で思っているようでにこにこしている。のんびりした姉に歩は頭がくらくらした。なんて危機感がないんだろう! 「出歩いたら危ないだろ。ほら、そんなふらふらして」 「これくらい平気です。心配しすぎ。知ってるかもしれないけど、わたし平均台だって端から端まで歩けるんだから」 「それが真実なら、何もないところでバランスを崩して壁にぶつかったりしないで欲しいね。ほら、それ貸して!」  買い物袋を引ったくられてゆかりが平気なのに、と不満を口にした。歩は聞く耳をもたなかった。だってサポーターに包まれたゆかりの右足はちっとも動かないのだから。  ニ年前、ゆかりは車にはねられて、夏と秋を丸々病院で過ごすほどの大怪我を負った。いまではすっかり元気になったけど、大事な神経がぷつんと切れてしまったらしく、それ以来、右足がぴくりとも動かなくなっている。もちろん、ゆかりのために家族は様々な支援をしてきた。遠く離れた病院まで通った。家の中でつまずいて、さらに悪化させないように引っ越しだってした。それでもかかりつけの医師によれば、ゆかりの右足が元通りに動く確率は宝くじで一等を当てるより低いらしい。一生、ずっと。  ゆかりは、ふつうの女子高生をやれなくなった。満足に出歩けないし、普通の高校に通えなくて家で勉強しているし、父親が海外出張にいってしまって家事のすべてを任されている。それでもゆかりは心配しないでと笑っている。  そんなゆかりを見ていると、いつか悪いことが起きるんじゃないか――と、そんなどうしようもなく暗い気持ちになってしまうのだ。
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