第1章 霧の先へ

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ゆかりのまだ疑うような目から逃げて、歩は自室に飛び込んだ。  部屋は暗闇に包まれていた。隣家の明かりがカーテン越しに入っていて、散らかしっぱなしの机や読みかけの本の輪郭をうっすら照らしていた。  ゆかりが畳んでくれたんだろう、山になった服が整列している。それらを無視して歩はベッドに倒れこんだ。宿題が山ほど出ているけれど、まるでやる気になれなかった。頭に浮かぶのは母親のことだ。  お母さんが気にしてる? まさか。悪い冗談だ。勝手にいなくなったあの人が、心配なんてするはずない。歩は最近すっかり忘れていた母親の顔を思い出して、枕に顔を埋めたままうめいた。  歩の母親は明るく、笑顔の絶えない人だった。怒られた記憶がなく、理想的な母親だったんだと思う。ただ、それでもひとつ欠点をあげるとすれば、母親には突然、二、三日家を空ける変わった悪癖があった。思い出したように一か月に一回くらい、ひどいと一週間のうちに何度もふらっといなくなる。父親は「気にするな。昔からなんだ」と笑っていたけれど、歩は子供心になにか恐ろしいことをしているに違いないと疑っていた。  小学校六年生の夏の日。目を覚ますと母親はいつものようにいなくなっていた。なんだまたいなくなったのかと諦めてその日は学校に行ったのだけれど、いつもとちょっと違ったのはそれからずっと帰ってこなかった。一週間後の歩の誕生日にも顔を出さなかった。旅行に行こうと約束していたのに。  警察にも探してもらったけれど、なんの手がかりも見つからなかった。警察官は街のどこの防犯カメラにも映ってないんだと、困ったように言っていた。  母親がいなくなった後の、歩の学校生活はすっかり変わった。  クラスメイトの連中は、母親の安否を芸能コメンテーターみたいに夢中になって推理した。駆け落ちで外国に行ったんだというバカな噂まで耳にした。その度に歩は言葉と、必要なら拳を振るって反抗した。そうやっているうちに周りから友達は離れていった。  歩は、こうなってしまった原因が母親にあると思っていた。そんな母親を信用なんてできやしない。いや、母親だけじゃない。止められなかった父親も、見つけられなかった警察官も、大人みんなが信用できずにいる。  大人に期待しても、裏切られる。いつからか歩はそう思うようになっていた。  窓に顔を向けると、車のライトが部屋を横切った。雨が降り出したようで、窓をとんとんと鳴らしている。男の子たちが自転車を走らせているようで、「新しいゲーム買ったんだ。明日うち来いよ!」「わかった!」という弾んだ声が聞こえてきた。  あの声のふたりはこれからきっと何の心配もせずに家に帰るんだ。親たちに今日のことを話して、満足して眠るんだ。  そんな想像をすると、一人でいるのに慣れたはずなのに歩はなんだか無性に泣けてきて、枕に顔をうずめた。
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