第1章 霧の先へ

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 校外学習の当日は、うんざりするほどの素晴らしい晴日になった。  昨晩、たっぷり降った雨でぬかるんでいると思われた山道は、ぐんぐん上がっていく気温のせいでからからに乾いていた。太陽が頭上に近づくにつれて、暑さで具合が悪いと訴える生徒が次々現れた。歩もその仲間だ。午前中だけで水筒の中身が半分になってしまった。  校外学習はまったく最低なイベントだった。まだ空気に涼しさが感じられる朝早くに出発して、ほとんど一日中、山の中を歩き続けて過ごすのだ。蒸し暑いし、精力的な虫も飛び回っている。女の子たちは手の平サイズの蛾が挨拶にくるたびに、ひゃあと悲鳴をあげて飛び退いていた。ただ中には鈍感な男子もいて、足を滑らせたらどこまでも転げ落ちそうな崖が眼下に広がっているのに、狭い小道を我先にと駆けあがっていた。すなぼこりが蹴散らされると、コップに口をつけていた女子が顔をしかめた。 「ちょっと、まだ休憩中なんだから静かに歩いてよ!」 「もう出発の合図あっただろ! まだ休憩しているほうが悪いんだよ!」  しかしこの男子の主張は、まったく的外れだった。引率の先生の多くは、まだ待機していた。 「修二先生ぇー、お昼はまだですかー?」  若く、なかなかハンサムと評判で、笑顔で登り続ける修二先生はすっかり女子の人気を集めていた。古びたウッドベンチに腰掛ける女子グループに声をかけられている。 「そうだな……次のチェックポイントで昼休憩だなあ」 「えー、もう歩けないですよー。ここでお昼でいいじゃないですかー」 「こんな狭い場所でお弁当広げたら登ってくるほかの人の邪魔になるだろ。もうすこしだから、ほら、頑張れ」  わがままな女子をさとす先生の声はとびっきり(ほが)らかだ。もちろん地べたにひとり座って休んでいる歩は、まるで別グループのハイカーのように無視されている……。 「はい、出発!」  先生のようしゃない号令に、みんな動く死体みたいにのろのろ立ち上がった。歩も、水分が減って少し軽くなってきているリュックサックをかつぎ直した。 「おい」  そんな乱暴な呼びかけと共に、歩は背中を押されて前につんのめった。何事かと振り返ると、隆也とその取り巻きが悪そうな笑顔を浮かべて手を突き出していた。手の先には彼のリュックサック。 「遠藤くんにお仕事だ。俺たちは先に行って場所取っててるからよ、この荷物運んでくれよ」 「なんで僕が……」  隆也が秘密を打ち明けるように顔を寄せてきた。取り巻きふたりもにやにや笑っている。 「昨日の靴のこと、これでチャラにしようってんだよ。あれから大変だったんだぞ? 通りかかった化学の井上に見つかって、いたずらしてるのかって変な疑いかけられてよ。そうじゃないって言っても信じてくれないんだ。説明してるうちにみんな集まってくるし。目立って仕方なかったんだぞ。それをこんなことでチャラにしようってんだ。俺たち優しいだろ?」  そもそもは君が面倒事を押し付けようとしうたんじゃないか。そう反論する前に隆也と、取り巻き二人がリュックサックを歩の前に積んでいく。 「それじゃよろしくな!」  三人は笑いながら歩き去ってしまった。  リュックサックは中に風船を仕込んでいるんじゃないかと思うほど、どれもぱんぱんに膨れ上がっていた。きっと余計な物まで入っている。もちろんリュックサックを運ぶ義理なんてない。でも、このまま放置したらあいつらはここぞとばかりに自らの正当性を主張して、罪をでっちあげるにちがいない。  呆然と立ち尽くしているうちに集団はどんどん前に進み離れていく。もうすぐ一般の登山者が登ってくる……。仕方ない。ほかの登山者に迷惑はかけられない。粗大ごみを置いていったらみんなに迷惑だ……。そう自分に言い聞かせて、歩はリュックサックのベルトを握った。ベルトが肩に食い込んだ。  丸々太ったリュックを持つには両腕では足りなくて、お腹にも抱えると、まるで重装備の消防士みたいな格好になった。それは同行する女子からすれば目を覆いたくなる、ひどく不快な光景だったらしい。
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