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腕に巻き付いたなにかはアユムを釣り上げる気のようだ。アユムは徐々に体が浮いくのを感じた。まるで釣り針にかかった魚のようだ。
顔が泥水から出ると、雨音にも負けない勇ましい声が聞こえてきた。
「ほらあ、力いっぺえ引けえ。一、二、三、の四! おっとよっと、あぶねえぞ! 沼に近づくなあ! 溺れちまうぞ!」
岸辺でランダや、それからおおくの街の住人が、アユムの腕から伸びたロープを引いていた。
岸辺はたくさんのポルカノ石が灯されていて、真昼のように明るかった。光の届かない暗闇では溢れた人の影がうごめいている。街のほとんどの住人が集まっているんじゃないか。先頭には不安そうに腕を組むエルジ。ロープを手繰るレーチェやチットの姿も見える。
アユムが陸に上がると、歓声が上がった。みんな喜びを爆発させていた。しかしアユムはそれどころじゃなかった。寒いし、痛いし。泥まみれのへとへとで、起き上がることすらできなかった。
頭のそばで下草を踏む音が聞こえた。顔を上げると、目を真っ赤に腫らして、怒った顔のアンナが近づいていた。
「エルジさんがあなたを助けて欲しいって街中走り回ってくれたのよ。ロープ投げの得意なレーチェが来てくれなかったら危なかったんだから。後でお礼言っておきなさいよ。――それで、あなたはどうしても寒中水泳をしたかったみたいですけど、少しは満足したのかしら?」
翌日、アユムの腕は気持ち悪いくらい青紫に変色して腫れ上がった。ランダの見立では、どうやら骨が折れているようで、五日間の絶対の安静が宣告された。
昼過ぎには痛みと熱が出てきた。ぼんやりした意識の中、おとなしく部屋で寝て過ごした。
アンナはただの一度もお見舞いに顔を出さなかった。それでも退屈に思わなかったのはティタが『看病』をはりきったからだ。寝たきりのアユムを四六時中、お世話するのは年少のティタにとって新鮮な遊びだったらしい。
「お姉ちゃんは怒っているの。カンカンなのよ」
ティタからそんな重要な情報がもたらされたのは口に虫入りの果物を運ばれているときだった。
それから何事もなく五日が過ぎて、とうとうアユムがベッドから解放される日がやってきた。
風のない穏やかな朝だった。霧の先に青空が透けて見えた。
吊り下げた腕のせいで服を通すのに苦労したあと、アユムが一階に降りると、アンナがちっとも面白くなさそうな顔でひとり立って待っていた。アユムの顔をちらりと睨みつけると、そっけなく言った。
「外に出るわよ。みんな待ってるから」
なんのことだかわからないまま、アンナの後ろについて宿を出ると、そこにはバスのような姿の箱車と大勢の住人が待っていた。
アユムが表通りに降り立つと、わっと沸き立った。耳を塞がないとおかしくなりそうなほどの大歓声。向かいの二階の窓から手を振っている男性は身を乗り出し過ぎていまにも落っこちそう。みんなが「おめでとう」、「よくやってくれた」と握手を求めた。
箱車はセセリ・パード・サーカス団の持ち物らしく、セセリ・パードが窓から陽気な顔を出していた。
「ほら、早く乗りな! あんたが回復するのを待っていたんだ。おかげで出発が三日も遅れちまったよ!」
「どういうことです?」
「なんだい、聞いてないのかい?」
セセリ・パードは踊り出しそうなほどご機嫌だった。
「あんたたちの乗車賃をここの住人が出してくれたんだよ! わたしとしてはそこまでされたらあんたらを乗せないわけにはいかないね」
「えっと、なんで?」
集まっているこの観衆といい、大金を融通してもらったことといい、わけがわからなくてアユムは戸惑うばかりだった。宝くじに大当たりしたと言われたほうがまだ信じられそうだ。
箱車のそばに立っていたランダがおずおずと歩み出てきた。
「お前さんはエルジを助けて、おまけにアロワーナを退治してくれただろう。街とは関係ないのに危ない目に合せたんだ。ほんとすまんかったなあ。……子供を悲しませるなという話も聞いたよ。たしかにその通り、耳がいてえ話だ」
「これはお礼なのよ」
そう言ったのはティタを脇に抱いたエルジだった。
「街はアロワーナに襲われる心配がなくなったわ。もちろんまだ貧しくて食べ物には困ると思う。でもそれはわたしたち大人が考えていけばいいことよ。あなたはそのきっかけをくれたの。みんなあなたに感謝しているわ。だから少しずつお金を出し合ってあなたたちを送り出すことに決めたのよ」
アユムは正直、大げさすぎると思った。アユムはただただ母親らしいことをしないエルジが気に入らなくて行動を起こしたのだ。アロワーナの前に立ったのだって成り行きでしかない。それなのにこんな映画スターのような扱いを受けることになるなんて……。
「……どう思う?」
「ありがたくもらっておけばいいんじゃないの?」
注目を浴びるのに困ってアユムがアンナに尋ねると、アンナは冷たく答えてすこぶる不機嫌な様子でふんと鼻を鳴らし、さっさと箱車に乗り込んでしまった。どうやらもてはやす前に、無謀な冒険をしたことを怒るのが先でしょうと思っているらしい。これは謝っても易々と許してくれなそうだとアユムは思った。
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