3. 男の話

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 「で、何が言いたいかっていうとね?そんなしけた話がしたいわけじゃなくてね。要は、蓄えなんて夢のまた夢ってことなんですよ。いやあ本当に羨ましい」  内容はともかく、店主の快活で人懐っこい話口調が嫌いではないということなのか、男の口元は微かに微笑んでいるようにも見えた。  私はいつになく酒が進み、気がつけば赤ワインも残りわずかだった。最後の一口を一気に飲み干してから、もう一杯おかわりを注文し、煙草に火をつけると、男に話しかけた。  「あの、私はどちらかというと出不精なんであまり旅行はしないんですけど、差し支えなければ教えていただきたいんですが、これまでどの辺りを旅してこられたんですか?」  「そうですねえ、まあどこからお話をすればいいか。いろいろと見て回っています。津々浦々というんですかね」  男は少し言葉を濁すような言い方をした。意図的にそうしたのか、それとも種々雑多な記憶をすぐに整理できなかっただけなのかは分からない。いずれにしても、あまり深く聞いてはいけないのだろうか、という思いが私には一瞬よぎった。男もそれ以上話は続けなかった。男はカウンターの壁に並んでいる空のビールグラスをじっと見つめていたが、ふと私の方に振り向き、私に尋ねた。  「すみません、煙草を一本いただいてもいいですか?」  「あ、はい、どうぞどうぞ。こんなのでよければ」  私は、取りやすいように煙草の蓋を開けた状態で男に差し向けた。  「すみません、ありがとうございます」  男は煙草を一本抜き取り、口にくわえ、私は火を差し出して煙草の先に灯した。男は前を向き直し深呼吸をするかのようにゆっくりと一服した。  私が尋ねた旅の話はすっかり流れてしまったかのように思えたが、男は薄暗いパブの照明の中で疎らに漂う煙から、浮かび上がる記憶を少しずつ読み込むかのように、おもむろに語り始めた。
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