2. 風の夜の来客

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 「ドラフトビールを一つ」  ふいに発したその男の声は、明瞭で聞きやすかったが、タイミングが微妙だったせいか、店主には音としては聞こえていたものの、理解するまで少し時間がかかった。  「あ、はい。ビールですね」  店主は一応確認した上で、棚に並んだパイントグラスを手に取ると、ビールをつぎながら私の方に目をやり、何かバツの悪そうな顔をした。  男は注文したビールを受け取ると、コートのポケットから裸銭を出して支払い、一口飲んでから小さく息を吐いた。  私は読みかけていた本を閉じテーブルに伏せ、わずかに残っていたビールを飲み干した。続けて赤ワインを追加注文し、煙草に火をつけようとしたが、ふと手を止め男に声をかけた。  「あ、煙草を吸ってもいいですか?」  普段、自分から人に話しかけることはあまりないのだが、不思議なことに、この時は気がつけば自然に言葉がこみ上げてきた。  男はビールグラスの底から浮き上がる炭酸の小さな泡に、見入るように視線を落としていたが、顔を上げて私の方を向くと「どうぞ」と穏やかに答えた。  この時初めて間近で男をよく見ることができた。歳は三十代後半から四十代前半くらいだろうか。髭は丁寧に剃られていて、コートしか分からないが小綺麗な身なりをしている。印象的なのは深くかぶった中折れ帽で、最近ではあまり目にしないスタイルだが、この男にはごく自然に馴染んでいるように思えた。  私は一言「どうも」と返事をして煙草に火をつけた。そして静かに立ち昇る煙を眺めながら次の言葉を探した。しかし「あなたはだれですか?」という朴訥なセリフ以外に発想するセンスがなく、思考は停止したまま、ただなんとなく不自然な愛想笑いを浮かべることしかできなかった。  店主も普段であれば新しい客には積極的に話しかけるのだが、今回に限ってはしばらく様子をみようとしているのか、あるいは、珍しくどう接すればいいのか迷っているのか、店の奥で仕事をしたまま、すぐにはカウンターに姿を現さなかった。  この男は、良くも悪くも、どことなく周囲の人間が遠慮してしまう雰囲気を漂わせていた。
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