【初めて言葉を交わしたのは】

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【初めて言葉を交わしたのは】

横浜の山の手にある小さなホテル、そこが私の仕事場。 ホテルと言っても客室はたったの8室、ペンションと言った方がいいかも。現に従業員も家族経営と言っていい、オーナー夫婦にその息子さんだ。あとは正社員とバイトが数人、私は正社員のひとりだ。 小さいがロビーとレストランからの眺めは良く、横浜・根岸の夜景が臨めた、萌えと言われる工場夜景だ。それを売りに繁盛していると言っても過言ではない。多くは市外、県外からの一見さんの客だが、常連も多い。 その人も常連のひとり。 三カ月に一度ほどは泊まりに来る。名は長谷部克明(はせべ・かつあき)、年の頃は私より少し上……20代後半だろうか。 働き始めて間もない頃は、なぜそんなに泊まりに来るのだろうと不思議だった。オーナーにロビーに飾られた写真の何枚かは長谷川さんのものだと教えられて納得した、写真家として著名な人だった。 工場夜景はもちろん、天体写真や月明りの下で撮られた遺跡の写真などもある、本職は天体写真を撮る事だと教えてもらった。 確かに泊まりに来ると、夜は外出していた。少し行けば飲み屋もある、そんなところへ出かけているのだろうと思っていたが、実は撮影だったのだろう。もちろんこの辺りでは満天の星空などない、このホテルが売りにしている工場夜景や街の夜景を撮りに行くのだ。 その彼は今、ロッキングチェアに頬杖をついて、文庫本を読んでいる。 窓の外は暴風雨。9月も半ばだと言うのに超が付くほどの台風が、ここ横浜を直撃している。オーナーに帰宅を促されたが、近所だからいいと断った。どうせ翌日も勤務だ、なんなら泊めてさせて欲しいとも伝えてある。 雨風が窓に当たる音が激しい。夜も更けたが外出など無理、だから彼は持て余した時間を読書で過ごしているのだ。 頬杖をついた横顔が綺麗だったと思った。見惚れている間にそんなにじっくりと顔を見た事がなかったと気が付いた。写真家の方が何を読んでいるのだろう、そんな事まで気になった。 私はフロントを出て、並ぶローテーブルを拭いて回りながらそっと彼の手元を覗き込んだ。革のブックカバーが見えてロビーに備え付けの本でない事は判った、でも文字の羅列だけではさすがに著者すら判らない。 「台風、困りますね」 思わず声を掛けていた、仕事関連以外で声を掛けたのは初めてだった。彼は驚く様子もなく私を見上げる。 「ええ。雨天でもいい写真は取れますけど」 そう言って微笑む、優しい笑顔だった。 「さすがにこの雨じゃね。報道関係者なら行かないとだけど」 正直な感想に、私も微笑み返す。 「本当ですね、危ないですからやめてください」 近頃は海沿いの中継などはないようだが、それでも危険と隣り合わせだろう。でもそれを見て、危機を感じて避難する人もいるかもしれない、そう思うと大事な仕事である。 「明日は台風一過ですから、晴れますよね」 「そうですね、明日の晩は撮影に行けるかな」 「きっと大丈夫ですよ」 「あなたのお墨付きなら、晴れ上がりそうだ」 仕事以外で初めて声を掛けたが、結局は時候の挨拶程度の会話にしかならなかった。従業員と宿泊客では、あまり深い会話になどならないのは当然だろう。きっと彼も何故そんなどうでもいい事を聞いて来たのかと思ったに違いない。 それでも私は彼に話しかけた事を、内心喜んでいた。他愛のない会話だったが、真摯に話をしてくれる優しい人だと判って得をした気分だった。
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