42人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
【名前を呼んで】
その日の業務は消灯の22時で終わる、まだ雨は残るが暴風と言うほどではない中帰宅できた。
彼との挨拶程度の会話を、私はベッドの中で後悔する。
会話した直後は、お客様との何気ない会話がよかったと思ったのだが。
風呂に入ってその会話を反芻している間に、もっとうまい返しや、気の利いた事が言えなかったのかと猛省したのだ。
素敵なお写真です、とか。
写真集を持っていて、実はファンだったんです、サイン貰えませんか、とか……ううん、持ってないから嘘は駄目なんだけど。
上部だけの会話を、彼はつまらなく思わなかっただろうか。急に声を掛けてきて変な女だと思わなかっただろうか……そんな欝々とした気持ちのまま、私は眠りについた。
*
朝起きてもモヤモヤした気持ちのままだった。彼は今日もいるはずだ、少しはできる女と見られたい。
気合を入れ直してホテルに向かう。私がこのホテルを職場に選んだのは、その近さだ。親と住む家から、徒歩5分はありがたい。
勤務は三交代、朝7時から14時までと、10時から18時まで、そして14時から22時までだ。私は昨夜は遅番だったので、今日は10時からの昼番での勤務となる。
台風一過の抜けるような青空の元を歩き出勤。フロントに顔を出すと、初老の男性、オーナーの尾熊さんがいた。
「おはようございます」
「あ、おはようー。ねえねえ、麻那ちゃん、長谷部君となんかあったの?」
いきなりの質問に、私は卒倒しそうになった。
「ななな、なんかってなんですか!?」
「いやさあ、朝ご飯の時、フロントの女の子の名前、聞いてもいいですかって言われてさ」
女子はもうひとりいるが、夕べの今朝なら、私の事だろう。
そして、このホテルは小さいが故、従業員に名札ない。制服もないから、一見さんは宿泊客と従業員の区別はつかないだろうと思う。
「なにか粗相を?って聞いたけど、違うって言うし、他の客なら教えないけど、長谷部君ならいいかなって教えちゃったよ」
「そ、そうなんですね」
そういえば、自己紹介もしてなかった。ううん、従業員が自己紹介っておかしいでしょ、旅館の中居さんならともかく。
「あ、大丈夫です。夕べ、少しですけど台風が、なんて話をしたので、気に掛けてくださったのかも」
そうだよね、こちらだけ一方的に名前を知ってるのもフェアじゃないかも。
今度お顔を見たら、自己紹介をしてみようか……ううん、それはかなり恥ずかしいかも。
*
チェックアウトを終えた客室の掃除をしていると、
「中川さん」
背後から呼ばれ、私は誰だと振り返った。
呼んでくれた人の姿を確認して、もっと笑顔で振り返ればよかったと後悔する、開け放たれたドアの向こうに長谷部さんが立っていた。
「はははは、長谷部さん!」
笑った訳ではない、驚いたのだ。彼に名前を呼ばれるなど……それがこれほど心臓が飛び出しそうになるとは……本当に口から出てしまいそうだ。
「おはようございます!」
「おはよ、って言うには遅いかな」
確かにです、でもなんと言ってよいのやら。
「いえ、あのっ、夕べはよく眠れましたか?」
ああ、また業務的な事しか言えない。自分がすっきりとした目覚めを迎えていなかったので、思わず聞いていた。
「はい、もう自宅気分なので、ぐっすりと」
長谷部さんの笑顔が眩しい。
「自宅……そうですよね、何カ月かに一度はいらっしゃいますよね」
「ええ。こちらだといつも同じ部屋にしてくれるのでありがたいです」
まさしく自宅気分で寛げるのだろうか。
「ここだと……あ、そっか、あちらこちらに定宿があるんですね?」
「ええ、そうですね。世界中に」
「凄い! 世界中ですか!」
海外は飛行機で行く所、イコール、北海道と沖縄と言う認識の私には、羨ましい話だ。しかも沖縄は修学旅行で、北海道は子供の頃に行ったきり。
「仕事柄、なかなか自宅には帰れません。車と荷物置き場代わりに羽田の近くに部屋を借りているのも悪いんでしょうけど」
「ご自宅はどちらに?」
「奥多摩です、星空の写真はその近所で撮る事が多いです」
「わあ……そうなんですね、きっと綺麗なんだろうなあ」
「ええ、山奥なので、人工の明かりはほとんどないですよ」
「すごーい、奥多摩の星空の本、今度買わせてもらいますね」
「買うくらいなら、今度プレゼントします」
「え、本当ですか!?」
ラッキー! 彼からのプレゼント!
「俺のなんかでよければですけど」
「とんでもない、嬉しいです!」
「よかった。じゃあ、少し買い物に行ってきます」
「はい、お気をつけて」
笑顔で手を振る長谷部さんの背を見送る私の心臓は、途端に破裂しそうに動き出した。
名前を、呼ばれてしまった……それがこんなに嬉しい事だなんて。
それに、今はうまく話せたんじゃない……!? ご自宅は奥多摩にあるなんて、プライベートな事を聞けたもの……しかもプレゼント! 本を持っていないなんて失礼かと思ったけど、まさかご本人からもらえるなんて!
*
その日の夕方、そろそろ私の業務が終わると壁掛け時計を気にしていると、長谷部さんが来た。
「おでかけですか?」
大きな荷物と、手にしたルームキーでそう思った。
「ええ、川崎の工場夜景を撮りに行ってきます」
「お仕事ですね。いいですね、私も見てみたいです」
なにげなく出た言葉だった、言ってからはっとする、それって一緒に行きたいアピールみたいじゃない!
彼がルームキーを置こうとした手が一瞬止まったのを感じて、余計に焦る。
「あ、わざわざ行かなくても、ここから見える景色も綺麗でした」
なんとか誤魔化した。
「え──ああ、そうですよね、ここも十分綺麗です」
フロントに置かれた鍵が、かちりと冷たい音を立てた。彼は「じゃあ、行ってきます」と背を向ける。
なんだろう……この虚しさは。
夕闇迫る窓の外、眼下に見える工場夜景がその本領を発揮し始めようとしていた。いつもなら綺麗と思うその景色が、どこか淋しく見えた。
素直じゃない自分の心が映し出されそうで──。
最初のコメントを投稿しよう!