2人が本棚に入れています
本棚に追加
2
翌日も昨日のことが頭から離れなかった。誘ってくれた彼のことを自分から遠ざけてしまった、そんな気がしてならなかった。あの瞬間から彼は私と距離を置くようになってしまった。もう誘ってくれないかもしれない。
昨日のことで私は自分の気持ちを再確認したのに、あんなにも簡単に彼は離れてしまった。
十年前の恋は、私の独り善がりな妄想だったのかもしれない。
もう、忘れたほうがいいのかもしれない。
私はもう十五歳の少女ではない。
彼はあれから三歳しか年を取っていないのに
私は十歳も年を取ってしまった。
諦めた方がいいのかもしれない。
私はぐっと涙を堪えた。そして制服に着替え、おいてけぼりの自分をテリトリーの中に閉じ込めた。
私にとって仕事に打ち込む時間だけが、寂しさも哀しみも全部忘れさせてくれる時間だった。制服に着替えて、ヘッドセットを頭にかけ、モニターを見ながらパイロットに指示を出すことは、もう一人の強い私になれる時間だ。
私はそうしないと
本当の私は……
臆病でとても寂しがり屋だから
壊れてしまう。
午前八時……ジャストにタイムカードを押した。気持ちを切り換える。
私は宇宙航空管制官の霧島汐名だ。
服装の乱れはなし。
髪の乱れはなし。
表情に陰りはなし。
これで完璧だ。
私は頑丈なテリトリーを張り、隙のない女の自分を始動させた。
我ながら鮮やかな切り換え術だと思った。これだけしたたかなら、きっと独りでも生きて行ける。きっと独りでも大丈夫だ。
きっと……
午後六時三十五分……ジャストにタイムカードを押した。勤務終了。今日は何故か鼻歌を口ずさんでいた。自分の出勤カードを棚にしまい、休憩室に向かう。なんだかコーヒーを飲んで寛ぎたくなった。そのために先にタイムカードを押してきた。正規の勤務時間を回ってから、制服で休憩室に入ることは禁止なのだ。そうやって不正に残業代を稼ぐのを防ぐためだった。
ここに皆、自分専用のコップを置いていた。私は棚からマイカップを取り出してコーヒーを注いだ。とても良い薫りがした。私はそれをくんくんと嗅いで堪能する。何故だろう。愉快で仕方がなかった。ランナーズハイ? 私、壊れちゃったの?
寂しがり屋の汐名が、隙のない女の汐名を通り越して、楽天家の汐名にでもなっちゃったの?
「ふふ……」
カフェインがアルコールみたいに作用した。二杯目、三杯目、飲むほど解放感が生まれた。意味もなくマイカップに描かれたネコのイラストを眺めてみる。そのネコは無表情でこっちを向いていた。 なんだか寂しそうだった。背景には簡素な雲しかなくて、独りぼっちで……
自分を見ているみたいだった。
「うっ……」
私は嗚咽を漏らした。その途端、止まらなくなった。
涙が滝のように込み上げて来て
止め方がわからなくなった。
私が座っていた白いテーブルは大洪水だ。ハンカチでは間に合わない。顔なんてメイクが崩れて、パンダおばけだ。そんな所を見たら誰もお嫁にもらってくれなくなる。
私は少女に戻ったみたいに、泣きじゃくった。その時幸いにも誰も部屋には来なかった。私はしゃくりあげながらコンパクトミラーで自分の顔を見る。
と、ガチャッという音をたててドアが開いた。
「!?」
私は焦って、見られたくないのにそちらに顔を向けてしまった。
「汐名」
「臣……?」
この姿を一番見られたくない人に見られてしまった。彼は驚きとかではなく、戒めるような表情で私の顔を見詰めた。怒られるのかと思った。そして……
彼は私の傍に歩み寄り、抱き締めた。
「何で泣いてるの?」
優しくそう問い掛ける。私は声が出せなかった。声を出したら、途端にまた泣き出してしまうから。堪えて、言いたくないと頭を左右に振った。
その頭を彼は優しく撫でてくれた。
「泣かないで。オレで良ければ、相談でも気晴らしでも、付き合うからさ」
彼はそっと私の体を放し、顔を見た。
「さぁ、メイク直して。出かけるよ?」
「臣……」
また涙が込み上げてきた。
「どうした〜」
彼はまた泣き出した私の頭の後ろに手を回して、愛犬と戯れる飼い主みたいに自分の頭を擦り寄せて言った。
「今日は夜景を見に行こうか?」
最初のコメントを投稿しよう!