空想の世界

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 闇夜に眠る影は冷たかった。睫毛(まつげ)に止まる(はえ)は私の(にお)いに寄って来た。無意識に手は蝿を飛ばす。しかし、私からなかなか離れてくれない。五感なき所に居場所を見つけると、そこで休息の時を過ごしているようだった。  真円を描く月は猫の眠りを妨げていた。興奮に叫ぶその様子は二匹の幸せの証なのだろうか。近くを歩く男は家路を進みながら自己の快楽の種を想像していたかもしれない。  トンネルを抜けると、そこには見たことがない暗黒があった。小さな光が点々と色違いに(またた)く。すると、目の前が明るくなり、ぼやけた景色が現れた。ようやく眠りから覚めた。  先程の男の部屋のゴミ箱には濡れたティッシュが数個。私はそれを鼻に近づけ、(にお)いを楽しむ。その興奮は私の眠気を奪い取っていく。こうした時を過ごしている時が最も生命の(よろこ)びを得られているように感じた。  時が過ぎるのは早い。半日が過ぎているのに気づいたのは、小学生の声が聞こえてきたことから。カーテンの隙間から嫌な光が見えてきた。  男の部屋のゴミ箱には乾いたティッシュが数個。広げればきれいなティッシュ。私の部屋には先程の男のゴミ箱にあったティッシュが別の液体と混じって濡れたまま床に落ちていた。そしてまた私はそれを鼻に近づける。  真の快楽を知らずに育った私は、自分の膜を自分で破っていた。真の快楽を知らずとも、快楽の(さかずき)は交わしていた。喉奥にはかつての記憶が呼び起こされる。禁断の感覚は今の私には記憶のみとなっていた。  いつかまたその時が来るのを信じ、今の苦しみをただ(しの)ぐのみ。最期の時を決めている私に残された時間はどれ程だろうか。私の幸せを奪い、最期を決めることすらできない者からすれば、私の覚悟はその他者が幸福を得るための肥やしでしかないだろう。  ほとんど寝ることなく朝を迎えた私だが、不思議と眠気はやってこなかった。電車に揺られ、職場に身を置く。体はそこにあれど、精神は別の場所に置いてきぼりだった。眠気を感じることなく意識だけは遠のいていく。ある種の快楽であり、私を管理する立場からすれば不快であった。  たびたびジャーキング(※不随意の筋肉の痙攣(けいれん))をしながら一日を終える。その度に脳は目覚めるが、それは一瞬のこと。  家に帰り、食事の支度をする。家族の笑顔がある一方で、それが私の胸を押し潰す。大事だからこその罪悪感。私に代わりがいるのなら私は消えてしまいたい。終焉を迎える方法は既知。そこに大きな苦痛などないことも既知。不足するはもう1人の私。  無関心という害悪。無関心が生む大事な存在への危害。その危害の原因に関心を持つことなく、それを当然と思い、その危機に対して不満を抱く。原因を説くことは、無関心者への害悪となり、互いに責任を押し付け合うことが繰り返される。説けない自己に責任を感じながら過去の現実を探求する者、そして、その過去の現実を原因と説かれることで責任を押し付けられていると腹を立てる者。この無限ループは終わらない。  後に私は快楽を得られる環境を失い、快楽のための環境を得るためには大事な存在との縁を切らなければならないという不幸な論理に日々葛藤することになった。  大事な存在のために縁を保ち続けたことが、大事な存在を苦労させる本末転倒の現実。幼少から多数の電気信号を交差させながら快楽と幸福への予測を積み重ねてきたコンピューター。0と1の選択ミスが生んだ悲劇なのか。そもそも混在していたバグを修理することは、バグの原因の消去を意味する。  バグの原因はコンピューターのOSなのかソフトウェアなのか、それとも両者の適合性の問題なのか。答えを得られぬコンピューターは使い物にならない。  頸動脈の鼓動を感じながら、喉は大きく空気を飲み込む。少しずつその時が来るのを感じながら、私の目は半開きのまま固まり出す。目には無意識に涙が溜まる。  何も知らない無関心よ。無関心な自身の愚かさに生涯気づかぬ者によって存続しているこの世界は、誰がために生きているのであろうか。
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