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一月の十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから……と金色夜叉の貫一の台詞ではないが鹿角翔真(かづのしょうま)の心中には一縷の光明にも近い、僅かな、約束の日、に望みを託していた。
既に別れてしまった恋人、小泉文乃(こいずみふみの)との再会の刻(とき)である、今日、今夜に。
夜空に浮かぶ月には、幸か不幸か曇った跡はない。むしろ燦々と翔真が座っている都内の緑地帯も多く、噴水の施設もある広い公園のベンチを照らしている。会社帰り、スーツ姿の翔真。初冬の時季、暗がりは濃いが、まだ夜深い時間ではないので、周囲では翔真と同じようにベンチに座っている、やはり会社帰りのサラリーマンやOLが多く見える。しかも明日は休日。公園の街灯下のベンチでは、男女カップルらしき二人の仲睦まじい姿が往々に目撃できる。
そのような状況の中にいる翔真は、苦々しい顔をしながら、半身をベンチから乗り出し、両肘を両膝に置いて、左右両手の指を交互に重ね、さらにその上に自分の顎を乗せ、革靴の踵を地面に鳴らし、あきらかに苛立っているように見えた。いや、焦っているような様子だった。
約束の日。
今日、その日が自分自身、勝手に思い込んでいるものなのであろうか? とやにわに翔真は脳裏に浮かべる。
いや、約束は約束だ。
少なくとも今夜は彼女である文乃と予約が半年以上取れなかった豪華ホテルのディナーをともにする日である事は約束した、と翔真は考えている。
ただ、その間に二人、別れてしまったが。
俺の今している、そう、やっている事はキモいのか? ちょっとしたストーカーちっくな未練タラタラのヤバい行動なのか?
自問自答する翔真。
つまり、翔真は遙か以前に約束していた文乃との夜食の日である今夜に待ち合わせしていた予定の公園のベンチにポツネンと一人座っているという状態。
文乃とは別れたというのに翔真は座っている。
やはり明らかにイカれた、というかアブない精神状態なのか、俺。否、俺はただ仕事帰りに一服するためにこの公園に来たんだ。何だよ、約束の日って? 俺はそんなの意識してねえし。事実、これから自販機で缶コーヒー買って飲むし。
強がりとも虚勢ともいえない迷走がちな坦懐(たんかい)しない内心に、翔真自身も戸惑っていたが、奇妙な結論を下し無理やり己を納得させ立ち上がり、実際に側にあった自販機に行って缶コーヒーを買いに行った。買った後は速足気味、直ぐに先ほどまで座っていたベンチに戻って行ったが。
翔真はライトアップした噴水の近くのそのベンチに座ると、チョビチョビと徐にホットの缶コーヒーを飲み始めた。それは、所謂、文乃と今夜会う予定だった時刻が来るまでの、それでいて来る当てのない文乃を待つために粘るための、缶コーヒーの飲み方だったが、翔真はただのんびりと仕事帰りの疲れを癒すために、ゆっくりとの飲んでいるだけだ、と頭の中では言い聞かせていた。
だが、一方で二律背反的な自己の思案に疲れ始め、翔真はもはや認める事にした。
俺は今日という、約束の日に、期待している。未練おこがましいとは分かってはいるが、やはり文乃を諦めきれない。俺は奇跡を待っているんだ。
そんな確信と願望が複雑に入り交じった気持ちを翔真は抱きながら、思わずアルミのコーヒーの缶を強く握りしめる。
そして、さらに繁雑な念が翔真をつるべ打ちのように襲う。
いや、あまりにも自分にとって都合の良い奇跡か。
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