言の葉の楼閣

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 本音と建て前。嘘も誠も話の手管。  円滑な人間関係を営むには時に嘘も必要である。この言葉の意味を、全世界の人間がよくよく身を以て知っているだろう。この男も例に漏れず、この諺の意味を良く解し、器用に言葉を使いこなしていた。いや、男が一度人間関係において衝突を経験し、それに懲りてからというものの、実際この男程この教えを敬虔に守り、実践するものは他にいなかった。  男は何時でも円滑な会話を遂行するために、頭を絞り、最善手を打った。相手の主張を否定しない。全てはこの基本理念の上に執り行われるのである。好きでないものを好きというのは皆さんにとっても割に容易いことであろう。では、嫌いでないものを嫌いというのは?男は、自分の良心が傷つき、侮辱されることを感じながらも、これを毅然としてやってのけた。先日も、同僚の上司に対する讒言に同調し、謗った。「全く以て、非道い奴だ。人の上に立つ器では断じてない。」こんな具合であった。反乱軍を率いる、大将のようですらあった。男はその上司を嫌いではなかった。また、当然男はその上司に対しても例の教えを守っていた為、その報いとして、上司からは好かれていた。こんな風で、男には親友と呼べる者はいなかったが、男を悪く言う者も居なかった。男は偽りながらも器用に人間関係を構築し、それに安心と満足を感じていた。  しかし、その安寧はほんの一時のうちに脅かされることとなる。それは会社の同期の、Kによってであった。彼はほとんど普段口をきかず、仕事もてんでだめ。ほとんど周りに白痴扱いを受けているような奴であり、男も私的に会話を交わす機会はなかった。そのKが、男が一人のときを見計らってなのか、歩み寄り、男に向かって話し始めた。「この前、聞いたぜ、Y(件の上司である)の悪口...。本音じゃ、ないだろう。」男は突然のことに驚いた。「いきなり何を言うんだい、Kくん、僕はさっぱり訳がわからないよ。」「すっとぼけるなよ。正直になれよ。君は、見ていて気味が悪いぜ。」Kは意地悪そうな光を瞳の奥に湛え、続けた。男に対し、これほどまでに敵意を剥き出しに話す者は未だ嘗て無かった。男はまず、恐れ慄いた。図星をつかれた時の、ギクリと、心臓が瞬時に握りつぶされるような焦りを覚えた。それからそのあと、男は会話の中で、久方ぶりに不快の気持ち、反論したいという気持ちがむくむくと沸き起こって来ることも感じ取った。確かに俺はあの上司は嫌いではない。仲もいいほうだ。本当ならばあんなこと口にしたくは無かった。だが、どうすれば良かったというのだ。同僚との人間関係も大切じゃないか。それを危ういものにしてまで、あの場面で上司を擁護すれば良かったのか。そもそも、俺を気味が悪いと非難するが、お前の方こそいきなり失礼な奴だ。とそう思った。しかし、男はとうとうこう口にすることは出来なかった。「全く、何のことだか...。」そうやっと返すと、Kは「残念だ、もう手遅れかもしれんね。」と残し去っていった。  「いったい何だったのだ、何者なのだ、Kは。」男は不快感を抱いていた。Kなどは、意にも介していなかった。そのKに、巧妙に練られていたはずの立ち居振る舞いの実を看破され、男は狼狽していた。また、そのことに得体の知れぬ恐怖を感じた。正直になれ、と言われたことを思い出し、「一体何に正直になれというのだ?」と自問した。 男はその晩、気休めに恋人を呼び出した。その恋人とは、あるコンパの後、流れのままに一緒になった女であった。男の好みでは無かったが、そのような関係になったことの責任の一旦は男にもあると自覚されていたため、無碍にもできず、例のように上手く取り繕いながら関係が続いていたのだった。男は女にもてた。女とは、男に言わせれば「最も簡単である。相槌と、美しい、愛している、というだけでよいのである。」とのことであった。  行為中、男は愛を囁いた。女は恍惚の表情を浮かべ、「もっと言って。」と懇願した。男はそれに妙な安心感と満足感を覚え、何度でも囁いた。  果てた後、布団にうつ伏せになった女の、明らかに余計に肉がついただらしのない肩、腰骨の辺り、そして尻、と眺めているうちに、先ほどの不快感がぶくぶくと膨れ上がって来た。そこで男は、一寸この不快感を女にぶつけてやろうか、という気を、初めて起こしたのであった。 そういう気を起こしてみると、男は不思議なような感覚に陥った。こんな気を起こしたのも、Kのせいだろうか。男は、自分が平常ならば絶対に言えないようなことを言わんとしていることに少しの緊張と興奮を覚えていた。そして、ついに「おい、おまえ。仮にも私の恋人ならば、お前のような不細工が、そんなだらしのない恰好をするんじゃない。見るに堪えないではないか。」と言った。  女はびくりと体を不器用に反転させ、男を見た。その眼は、驚きと少しの恐怖に見開かれているようであった。男としては、予想通りの反応であった。しかしどうしたことか。男の気分は全く晴れることは無かった。「おい、聞いてくれ。俺は本当は皆が嫌っている上司のことは割に好きなんだ。悪口言って、悪いことしただろうか。そして、今日のKには、実際少し腹が立ったよ。一言言ってやれば良かった。」 女は男が何のことを話しているのか当然了解していない様子だったので、息を飲んで男を見つめ続けるしか無かった。 「お前と恋人であるのは、ただ都合がいいからだ。俺もそこそこいい歳に差し掛かり、恋愛というものは何なのか、これで良いのだろうか、という事も考えるのだがね。お前は簡単だし、金もかからない。俺の情欲も満たしてくれる。こうなると、中々手放すのも惜しいというもんなんだ。」 男が発したこれらの言葉は、全くもって言葉を失い石像と化してしまった女の醜い裸体に当たり、ばらばらと規律を失って、布団の上に散らばった。分解され、もはや意味を失ったジグソーパズルのように、文字達が無造作に女を取り巻いている。  結局、男が言えなかった言葉の数々は、もはや男が言いたい言葉ではなかった。全ての言葉はその一貫性と重みを欠き、自らの中で、女に囁く愛がそうなるのと同様の白々しさで、響いただけであった。男は、「平生の発言の積み重ねが、人格にアイデンティティを付与したりするのかしら、そうであるなら、私はさしずめ、求められる模範解答のみを正確に答える、高性能の人工知能というところだろうか。」などととりとめもなく考えた。「実際、俺はどうだっていいのだ。」この言葉だけがやけに頭に浮かんだ。それは先程の言葉よりは確かな存在感を持っている様であった。そして、男は女に改めて向き直り、「しかし、実際、君は美しい。愛しているよ。」と言った。Kに感じた不快感と恐怖は完全に消え去っていた。    
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