風景

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風景

「ん……どこ?」  気がついたら知らない街のど真ん中にいた。  見渡す限りセピア色の風景、民家と農地と小川が流れる。人の気配はない。 「見たことあるような、ないような? ――痛っ」  頭が痛くて思い出せない。手足の感覚はあるけれど、全身を包む浮遊感からこれが夢の中かもしれないと思った。  鼻には乾いた土と草の匂い、それにほのかな堆肥が混ざっている。たぶんだけど、僕は嗅いだことがある。  服装は半袖短パンの少年スタイル。身体の大きさは変わらないのに服が小さいから窮屈で仕方ない。  でもここに突っ立っていても何なので、とりあえず歩く。  動くと脇や太腿の付け根が衣服に締めつけられる。  何でもいいからこれ以外の格好に着替えたい。  そう思った瞬間、視界が一変した。  白っぽい壁と薄緑の床、長い廊下に部屋がいくつか見えるここは、どこかの学校の中だろうか。 「あ、制服になっている」  僕の全身は黒い学ランを着ていた。これでもまだ小さめだけど、さっきまでと比べれば文句は言うまい。  またあてもなく歩く。  廊下は長く、目測でも100m以上はありそうだ。途中に手洗い場があったり、柱の四角い出っ張りがあったり共感できる学校の特徴があちこちにある。通っていた中学に似ている気もするけど、公立学校なんて大体どこも同じ外観と内装のもんだ。  ドアの小窓から教室を覗くと荷物はなく、整頓された机と椅子が並んでいる。黒板には『3-1卒業おめでとう』の文字と色とりどりのチョークで描かれたメッセージ、桜やキャラクターのイラストが散りばめられている。そうか、今日が卒業式だったのか。どうりで校内に人がいないわけだ。  他人事とはいえ、新たな人生の門出を祝福する気持ちが胸に灯った。人の幸せは自分の幸せだ。なんて心で思うのもちょっぴり恥ずかしい。  長かった廊下の先には下へ伸びる階段が。3階から1階までゆっくり降りた。1段降りる時の衝撃が頭に伝わってやけに痛むからだ。二日酔いでガンガン響く感じ。お酒なんて何年も飲んでいないのに、いやだなぁ。  1階に着くとすぐそこに玄関口があった。  そこから外へ出ると校庭が広がる。遊具もなく殺風景な空間には誰もいない。北風が吹きさらし、学ランでは防寒性が心許ない。  そう感じた次の瞬間、再び景色が切り替わった。 「今度は――大学、かな?」  レンガ造の厳かな建物と真っ白い壁面とガラス窓で構成された幾何学的な建物が建ち並ぶ場所。所々に芝生のエリアが設置され、学生や教授の憩いの場になっているのだろう。今は相変わらず一人もいない。  どこぞの有名大学がこんな雰囲気だった気もする。 「制服じゃなくなった」  大学生なら、まぁ私服だ。フード付きのロングコートに厚めのデニムを穿いている。知らぬうちにポケットに突っ込んでいた手には風を通さない黒い手袋まではめている。気温はさっきの校庭より寒いはずなのに体感温度は全然違う。思えば何でもその通り、というわけじゃないみたいだが、便利ではある。 「不思議な世界だな、いかにも夢らしい」  キャンパス内をとりとめもなく歩きながらそんなことを呟いた。  建物はどこも閉まっているようで、面白みに欠ける。  思えば、さっきから人どころか動物を見ていない。そりゃシカとかイノシシはいなくても、犬とか猫とか、なんなら虫の一匹くらい見ても良さそうだが……。真冬の寒さがそれらとの出会いを阻害しているのかもしれない。動物は寒さが嫌いだからな。  自分の大学の思い出と言えば、ひたすら遊びほうけてバイトして、たまに授業に出てギリギリ単位を稼いでいたことくらい。結局卒業するのに6年掛かって父親にこっぴどく叱られたのは今でも笑えない話だ。  ……うそ、思い出したらやっぱり笑えてくる。当時の自分の馬鹿さ加減は学校一だったと自負している。そのおかげで今ではできないような色んな経験を積めたから後悔はしてない。後悔しても人生の役にはこれっぽっちも立たないのをよく知っている。  突然、爆発が起きたような衝撃と閃光が眼球を貫いてた。 「なっ、ぐぅうおッ!」  体が宙を舞って吹っ飛ばされた。受け身もとれずに背中から叩きつけられる。背骨肩甲骨後頭部に重い痺れがじんわり広がった。渦巻く視界は白飛びした写真のようで風景の輪郭がつかめない。 「あー……いたい」  僕は片腕を支えに上体を起こす。  頭には割れるような鋭い痛み、手足の関節も軋むし腰も脊椎も痛めたかもしれない。それでも四肢を動かせるんだから不思議だ。夢なのに痛みだけが現実のものに感じる。  視力に色味が戻ってきた。今度はどんな場所に移動したんだ?  なんてことはない、単なる凡百の住宅地だった。  これまでのことを考えると拍子抜けしてしまう。時系列的にはどこかの会社のビルとかにいてもおかしくないのに、つまらないと思った。違うと言えば空がどんよりした大雨直前の模様なことくらいだ。  軽くストレッチをする。痛みは激しいが、やはり動ける。じっとしていても何も始まらない。とにかく今は歩かないと。  ぐっしょり汗をかいて、着ているTシャツとズボンとパンツに靴下まで濡れているから肌触りが気持ち悪い。 「はぁ、はぁ。ここは……」  見覚えがある、気がする。  民家と電柱と道路の世界。日本に住んでいれば一度と言わず何百回と遭遇する景色。デジャブを感じる理由はそれかもしれない。 「んん? なんだ、これ」  道路脇に生える電柱、僕の右横にある一本に『←』の矢印が書かれた貼り紙があった。 「……そっちに行けってか」  僕は汗を袖で拭って指示に従った。  その先から電柱ごとに矢印が張ってあり、どこに向かうかわからないのに僕はまるで焦燥感に支配されたみたいに早足で道を踏みしめた。急がないと  何度角を曲がり、直進し、歩き回っただろうか。  矢印に合わせて進めば進むほど、空は黒く圧迫感を増していくし、住宅街から都心部へと近づいていく。すれ違う人も車もない、死んだ街を僕はがむしゃらに走った。全身から骨伝導の悲鳴が聞こえる。 「はやく、いそげッ、自分!」   乱雑に崩れた字体の矢印がさらに気持ちを急かす。    目の前に現れた白亜の巨大な建物。指示は直進のまま。僕は扉を思いっきり開けて中へ飛び込んだ。  入口から枝分かれする廊下にも矢印の貼り紙が、枚数を増やして進行方向を強調している。  僕は全細胞の残力を振り絞り、筋肉を酷使し、骨が砕け、皮膚は裂け、頭は割れて血が顔にも流れ落ちた。  満身創痍でついに辿り着いたのは、全方向から矢印が取り囲む一つの部屋だった。 「…………」  何もしゃべれず、震えが止まらない手で扉を引いた。  室内の光景を見た瞬間、僕は強烈な光の束に切り刻まれて、中心に吸い込まれていった。
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