honey ~犬と東京タワー2

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 なんとか表4の件も解決したその日の夜、そのまま帰りに今井と飲みに行ったため、家に着いたときにはもう日付が変わっていた。  早く帰って事の真偽を確かめたい気持ちが半分、訊きたくない気持ちが半分、中途半端な気持ちのままだらだらと、彼女の仕事の愚痴に付き合っているうちにこんな時間になってしまった。  「ただいま~!」  夜中だというのに、牧瀬はやけくそのような大きな声で、玄関を開ける。声がでかくなってるのは、酔っ払いの証拠だ。迎えに出てきた房原が、靴を脱ごうとしてふらついた牧瀬を支えながら言う。  「もう、月曜からこんなになっちゃって。誰と飲んでたんですか?」  珍しく険しい顔で牧瀬を見る房原。あのあと口を訊いていないし、房原が席を外している間にとっとと会社を出たから、今夜さっそく今井に奢らされていたことを彼は知らない。  「うーるーさーいー! 俺が誰と飲もうと勝手だろ! だいたい、平気で朝帰りするやつに言われなくないね」  牧瀬は、金曜の夜のことをあて擦る。そのときは、ほかの制作のやつらか営業マンと飲み歩いた挙句、誰かの家に転がり込んで雑魚寝でもしたんだろうと――それは、よくあることだったし――、特に何も言わなかったけれど。  房原の手を振り払い、キッチンに直行してグラスに水を注ぐ。  「あ、あれはその、――」  言われて、ついてきた房原が口ごもる。そこでうろたえる房原に、牧瀬はカチンときた。うろたえるのは、後ろめたいことがあるからだ。  コトン――。  牧瀬は飲みかけていた水をおいて、房原に向き直る。  「あれは? なんだよ」  すわった目で自分を見据える牧瀬に、房原は動けない。  「酔っ払ってて、記憶が途切れてるんすけど――。気がついたら朝、公園のベンチで寝てたんです…」  情けなさそうに言う房原に、牧瀬はもたれていたシンクからずり落ちそうになる。  「は? 公園で寝てたって…」  房原は、嘘をついてない。と思う。上手に嘘がつけるような、演技力も悪知恵もない。でも、記憶がないってことは、やっぱり――。  牧瀬は、そのままずるずると床に座り込んだ。  「牧瀬さん?」  房原が心配そうに、座り込んだ牧瀬を覗き込む。酔ったハズミの過ちを、それも本人が記憶にないことを責めるのは大人気ないと思う。まして相手は百戦錬磨のツワモノらしいし。  それでも、それだから余計、牧瀬は傷ついていた。  それじゃあ、自分のときとまるで同じじゃないか――。そりゃ、安易で、人から見ればいい加減なきっかけかも知れないけれど、自分にとっては、一生に一度の賭けだったのだ。ものすごい勇気と覚悟がいったのだ。それなのに――。  そんなに簡単に、同じように他の人間を抱くなんて、房原にとってあのときのこともただの酒の上での過ちにすぎないのだろうかと、牧瀬は胸が痛くなる。あのとき自分がどんな思いで房原を誘ったのかなんて、彼は知らない。こんなのは自分勝手な感情の押し付けだと理性ではわかっているけれど――。  「記憶の抜けてる部分、補足してやろうか?」  「え?」  覗き込む房原が、怪訝な顔をする。  「優佳さんと、一緒だったんだろ? もう噂になってるよ。今度のお相手はお前だって」  「お相手って…」  「寝たんだろ」  牧瀬は言って、目を逸らす。  「寝てません!!」  房原は必死の形相で、ぶるぶると首を振って即答した。  「覚えてないんだろうが。なんで言い切れるんだよ」  視線を上げて睨みつけながら言った牧瀬だが、下から見上げているせいか、拗ねたような口ぶりのせいか、いまひとつ迫力に欠ける。  房原は、傷ついたような牧瀬の表情に、やっきになって弁明する。  「やってる最中の記憶はとんでても、やったかどうかはわかります! 牧瀬さんとの時だって、わかりましたよ? ――その、出したあとの感覚っていうか…。そういうの、翌朝残ってるでしょ…?」  言われて、牧瀬の方もなんとなく思い当たって赤くなる。  「ほんとうに、やってないんだな?」  一応、念を押した。  「当たり前です。俺が牧瀬さん以外の人と寝るわけないじゃないですか」  きっぱりと言い切る房原に、牧瀬はほっと身体から力がぬける。  そうなのだ。房原の気持ち自体は疑いようもない。駆け引きとか、力関係とかまったく考えることなく、全身全霊でしっぽ振って懐いてくる房原が、自分を裏切るなんて考えられない。不可抗力でそうなる可能性があっただけで――。  これだけ素直だと、彼の気持ちが離れそうになっていたら、すぐに気付いてしまうだろう。たとえ気付きたくなくても、きっと。  少し胸が痛んで、牧瀬は目の前の房原の首をふわりと抱き寄せた。すぐに機嫌を直してやるのもなんだか癪で、つい憎まれ口をきいてしまう。  「――じゃあ、なんで金曜の夜のこと聞かれて口ごもるわけ? なんかやましいことでもあんのかと思うじゃん」  「いや、――えーと、それはですね…」  とたんに房原は、どきまぎと言い訳めいた口調になる。仕事でミスをして叱られているときの、謝りモードと似てる。これって――?  牧瀬はがばっと身を起こすと、冷たい声音、冷たい目線で、ぴしゃりと言う。  「なにか隠してることがあるなら、さっさと白状するんだな。あとで言い訳はいっさい聞かないぞ」  「その…、えーと、キスだけ、一回だけ…」  びくびくと牧瀬を伺いながら、それでも素直に白状してしまう房原に、  「…」  無言で見つめる牧瀬。  「すみません! ごめんなさい~! 俺ほんと酔っ払ってて…、気が付いたらタクシーの中で、そんでキスしちゃってから、あれ?これ牧瀬さんじゃないかも…。とか思い当たって…。慌てて謝ってとりあえず、自分だけタクシー降りたんです。だから彼女の部屋には行ってません。信じて下さいよ~! 次に気が付いたときはマジで公園のベンチで寝てたんです!」  「なるほどね…」  公園で寝る羽目になった理由が理由だけに、言えなかったんだな、と牧瀬は納得した。  「ごめんなさい~。今後気をつけます~。酒も控えます~」  半泣きで抱きついてくる房原の背を、仕方なくぽんぽんと軽く叩いてやる。先にこう思いっきり謝られてしまうと、そんなことくらいで怒っている自分がばかばかしくなる。これはこれで、房原の手なのではないかとさえ思えてきた。  「…わかったよ。ったく、ほんとおまえ少し酒ひかえたほうがいいぞ」  溜め息混じりに穏やかに言った牧瀬に、  「はいっ!」  元気いっぱいに頷いて、房原がほっとした顔で笑う。  (なんだかな~。これって恋人同士の会話なのか? なんかお母さんと子供のような感じ――)  牧瀬は苦笑する。  「とにかく、俺がアイシテルのは牧瀬さんだけですから! 浮気とか絶対、死んでもしませんから!」  前言撤回。聞いてるほうが恥ずかしくなる、直球のセリフ。房原はこういうセリフをふつーに口にする。いたってナチュラルに。  「はいはい」  牧瀬はさらりと流すふりで、房原から身を離し台所に向き直ると、置いてあったコップの水を飲み干した。相手にしていないような態度で、でも心臓はドキドキしている――。  色素の薄い牧瀬の白い首が赤く染まり、後ろを向いて隠したつもりの赤面も房原にはバレていた。ほんとは、その言葉を嬉しいと感じている牧瀬の気持ちも。  房原の唇が、うなじに降りてくる。暖かい濡れた感触に、牧瀬はびくりと首を竦めた。  その体ごと、後ろから抱きしめて、耳に舌が差し入れられる。  「や、房原…」  思わず抗うような仕草をした牧瀬を押さえ込むように抱えこんで、房原の右手がベルトを外し、ジーンズを緩めて潜り込んでくる。  「はぁ、ん、ちょっ…と、房原。ここじゃ…」  真上にあるキッチンの灯りはついていないが、部屋は繋がっている。居間からの灯りで十分過ぎるほど明るいし、立ったままだ。房原の手の動きに流されまいとそう言う牧瀬の顎を掴んで上向けさせ、房原はそのままキスで口を塞ぐ。  口腔を這い回る舌と強く吸う唇が、湿った音をたてる。崩折れそうになる牧瀬の体を支えながら、房原が調味料棚のあたりに手を伸ばし、ごそごそと何かを手探りで探しあてた。  半分ずり落ちたジーンズ、下着の中で蠢く房原の手と口づけに翻弄されて、牧瀬はそのことにまったく気づいていない。  下着を下ろされて外気に晒された下腹部を覆う、冷たいとろりとした感触。  「ひぁ…、ん、なに?」  思わず見下ろした牧瀬の目に、濡れて光る液体に包まれた自分のものと、塗りこめるように動く房原の大きな手が映る。恥ずかしさに、思わず目を逸らした牧瀬の鼻をつく、独特の甘い匂い。  「ちょ、房原おまえ、何やって…」  言いかけて、ぐっと息を呑む。それ以上、もう言葉にならない。蜂蜜に濡れた指が後ろに差し入れられ、入り口にも、中にも、蜜が塗りこまれてゆく。牧瀬の熱に溶かされて、ゆるくなった液体が腿を伝う。  立っていられなくなってずるずると床に落ちる牧瀬をそのままキッチンに凭れさせると、房原は、牧瀬の足から下着ごとジーンズを引っ張って抜き、放り投げる。  「食べ物粗末にしやがって…。床が、汚れる――」  上がった息遣いの合間に、牧瀬がこぼす。言っていることは色気がないが、紅潮した頬に潤んだ目、激しいキスで赤く濡れた唇が誘うようで、房原の欲望をさらに煽る。  「粗末になんて、しませんよ。床は、あとで俺が掃除します」  言いながら、投げ出した牧瀬の足の間に跪き、顔を埋める。  「なっ! …あぁ、んっ、」  絡み付く房原の舌と唇の感触に、喘ぐ声が抑えられない。深く吸ったり、丁寧にぴちゃとぴちゃと音をたてて、甘い蜜を舐めとる房原の頭を、牧瀬は思わず強く掴んでいた。  「ば、か…、あ、はぁ…んっ。蜂蜜嫌いなんじゃ、なかったの…、か、よ…。くっ、」  「嫌いなんて、言ってないですよ。パンにはジャムがいいってだけで。――甘くて、あったかくて、美味しい」  そう言うと房原は、牧瀬を深く含んで、後ろにも指を入れて愛撫する。  「あ、ばか、離…せっ! 出ちゃう、ってば…」  引きはがそうとする牧瀬の手を無視して、そのまま深く吸い上げた。  「――くっ、」  我慢出来ずに迸らせた牧瀬の蜜を、房原は一滴も零さず受け止め、飲みくだした。  「――なんてことすんだよ…」  放心状態で、力なく呟く牧瀬をそっと倒して、房原が覆い被さってきた。下腹に、硬くて熱いものがあたる。  「愛があるから」  臆面もなく笑顔で言ってのける房原に、牧瀬は返す言葉も無い。  「食べたいくらい好きって、よく言うでしょ? 牧瀬さん以上に、甘くて美味しい人なんていませんもん」  にへらっと笑って、牧瀬の頬に軽く音を立てて口付けると、そのまま押し入ってくる。房原の熱い昂ぶりを中に感じながら、しょうがないな、と彼の首を抱きしめるようにぎゅっと手をまわす。  冷たい床の上で上がりつづける二人の体温。動物のように交わりながら、牧瀬は思う。  大人気なくても、つまんないことでいちいち傷ついても、それでも好きなんだから、――しょうがないか…。  甘い匂いと、房原のぬくもりのなかで、牧瀬は素直に欲望と愛おしさに身を任せた。    水曜の朝――。  毎週、各営業所の原稿担当の女の子が本社に集まってくる。1時間ほどの会議を終えて会議室から若い女の子ばかり、おしゃべりしながらぞろぞろ出てくる様子は壮観だ。フロアの反対側の制作部からもつい目が行ってしまう。  原稿担当者は制作マンとの仕事上のやりとりも多いので、そのうちの何人かは帰りにこっちによって、各担当制作マンのところでおしゃべりしている光景も、いつものことだった。ただ、会議はいつも午前中なので、まだ出勤していない制作マンも多い。  牧瀬は、なんとなく見るともなしにその光景を眺めていた。例の優佳さんも原稿担当だから、今日来ているはずだ。彼女は普段あまりこっちに寄ることはないけれど。  房原がまだ出勤してなくて良かったなと思う。彼女と話している光景をみるのは、やっぱり面白くない。と思ってしまうあたり、我ながら心が狭いと思うけど。  牧瀬は溜め息をつくと、ディスプレイに視線を戻し、仕事に集中しようとした。  すると、デスクの前にすっと立つ人影と香水の香り。  「お疲れ様です、牧瀬さん」  顔を上げた牧瀬に、にっこりと微笑む例の彼女。そんなに露出はないけれど、何気に身体のラインがわかるニットワンピース。緩くウェーブのかかった長い髪。相変わらず、男好きする感じの柔らかい雰囲気。これでいて中身は、けっこうキツい性格(という噂)。  「お疲れさま」  引きつらないように気をつけて、牧瀬もにっこりと微笑みかえす。どうして、自分のところへくるのかと、内心ではかなり動揺していたが。  「房原くん、まだ出勤してないんですね」  房原の席の方を振り返りながら、彼女はそう言った。  「――今日は、午後からの出勤だったと思うよ」  答えながら、なんとなくムカつく。そんな様子はおくびにも出さないけど。  「これ――。彼に渡しておいて頂けますか? 忘れ物です」  そう言って、机の上に小さな紙袋を置いた。  なんで、わざわざ自分にことづけるんだ? と牧瀬は思う。どうせ午後からくるんだし、房原の机の上にメモでもつけて置いておけば済むことなのに。それに忘れ物って――。  「タクシーの中に、忘れたのかな?」  「ええ」  くすりと笑って、彼女が頷く。つい、傍点つきで『タクシーの中』と言ってしまった。  (房原のやつ、酔いに任せて余計なことしゃべったんじゃないだろうな…)  「それじゃあ、よろしくお伝えくださいね」  そうにっこり笑って帰ってゆく彼女の後姿を、見送る。無意識のうちについ眉間に皺が寄っていた。なんとなーく、感づかれたようで落ち着かない。  あの彼女が、今さら「房原くんを食っちゃった」という噂に水を注すような言動はしないと思うけれど…。男の恋人がいて自分の誘いを断られたとあっては、彼女のプライドに関わるはずだし。房原にも、否定しないように釘を刺しておかなくちゃな――。  牧瀬は無理やりそう自分を納得させると、目の前の紙袋を引き寄せた。明治屋のロゴが入っている。中身は言わずと知れた苺ジャム。週末まで我慢できずに、銀座に出たついでに買ったらしい。  包みを手にとって、牧瀬はしばらく考えてから、デスクの下の引き出しの奥へそれを放り込んだ。  (取りあえず、おあずけだな)  牧瀬はいたずらを思いついた悪ガキのようにほくそえむ。  今週いっぱいは締め切りに追われて、買い物に行く暇なんてないだろうし、週末もなにか理由をつけて、外出させてやんない。プチ浮気のお仕置きとしては、これぐらい可愛らしいものだろう。それに、  (蜂蜜だって、けっこう気に入ってたしね――)  牧瀬は、まだ出勤していない房原のデスクにちらりと目をやり、くすりと笑った。  今日も遅くなるだろう房原を、待たずにさっさと寝てしまおう。セミダブルのベッドで、ほんの少しだけ右側を空けて。そして、朝8時には彼を起こすのだ。熱いコーヒーと、ハニートーストを用意して。  寝癖のついた頭、開かない目。この世の終わりのような情けない顔で向かいに座る恋人のために。 ――fin*
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