honey ~犬と東京タワー2

1/2
194人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
 朝、目を覚ますと、目の前に房原の手があった。    (どうりでなんか、重苦しいと思った――)    牧瀬は、後ろから覆い被さっていた房原の腕を持ち上げると、ベッドを滑り降りた。  あれから頻繁にやってくるようになった房原は、いつの間にかちゃっかりこの部屋に居着いていた。べつにそれは構わない。問題は房原のデカイ図体が、一つしかないセミダブルのベッドの半分以上を占拠しているということだ。  寝つきも悪く眠りの浅いデリケートな牧瀬は、別に布団を敷くか、もう一つベッドを買おうとしたが、房原の強硬な反対によって未だに実現していない。  牧瀬は不自然な寝かたのせいで固まった首や肩を揉みながら、いっこうに目を覚ます気配のない房原の平和な寝顔に、思わずため息をつく。  どんな状態でも熟睡できる図太い神経がうらやましい。というより恨めしい。いっそダブルかキングサイズのベッドに買い換えようかと真剣に考えかけて、――やめた。  男所帯にでーんと置かれたダブルベッドの図なんて、想像するだけで不気味な光景だ。  この部屋は間取りとしてはワンルームだが、床面積がかなり広く、形も細長く鉤状になっているので、キッチン、居間、寝室となんとなく区分けが出来ている。広さから言っても二人で住んでも問題はない。  ただ、プライベートな空間がほとんどなく、ベッドも一つなんてまるで新婚さん状態だ。今のままではこの部屋にとても人様は呼べない。  (やっぱり、房原がなんと言おうとソファベッドくらいは置いてやる)  牧瀬はそう心に誓った。  そして、よく眠っている房原を尻目にさっさと会社へ行く用意を始める。  毎週月曜は朝礼と、役職付きの朝一の会議があるため、制作部のディレクターである牧瀬はいつもより早く出かけなければならなかった。  彼らの会社はフルフレックスなので、何時に出社してもよい建前になっているが、牧瀬は定時には出勤するようにしている。一応管理職なので、標準就業時間は会社にいるようにしようと心がけていた。もちろん、夜もある程度の時間まで残っている。  一方房原は、締め切り前以外はお昼前に出勤するのが普通だった。制作部は、全体的に遅く始まって遅く終わる人間が多い。個々でMACに向かっての仕事が中心で、営業マンとの打ち合わせも、営業を終えて帰ってきてからになるので、自然と遅い時間の作業になる。  だから、こんな時間に起こさなくてもいいのは分かっているのだが――。すでに出掛ける用意も整い、テーブルには二人分の朝食。  牧瀬は、房原の布団をひっぺ返しに奥の寝室エリアに向かった。  「ほら、起きろ!朝飯できたぞ」  比喩ではなく、勢いよく布団をひっぺ返しながら、トドのように寝こけている房原に軽く蹴りをいれる。  「うー…」   丸くなって呻くだけで、起き上がろうとしない房原に、牧瀬が冷たく言い放つ。  「せっかく俺が作った朝飯、食わないってのか?」  その言葉に、房原は慌ててがばっと起き上がる。が、時計を見てふにゃふにゃと崩れ落ちた。  「牧瀬さん~、まだこんな時間じゃないっすか…」  「だって、今日月曜だから」  平然と言う牧瀬を、半分くらいしか開かない目で恨めしそうに見る。けれど、牧瀬の飼い犬同然、素直にベタ惚れ状態の房原は、それでもなんとか起き上がる。  目覚ましをまったく必要としないくらい寝覚めの良い牧瀬と対照的に、房原は朝弱い。何時に寝ても、何時間寝ても、起きるのは辛いらしく、放っておけばいつまでも布団の中でうだうだしている。仕事も遅いから可哀想だし、普段はなるべく起こさないようにしているのだが――。  房原は、寝癖のついたぼさぼさ頭で半分寝たまま食卓につく。目はほとんど開いていないし、眉間に皺がよって口はへの字になっていた。そして、思考力0という感じでただぼうっと座っている。時々顎が外れそうな大あくびをしながら。  牧瀬は、その様子に思わず頬が緩みそうになるのをこらえながら、ドリップしたコーヒーを淹れに流しに立つ。普通の感覚であれば、だらしなくてカッコ悪いはずの寝起き姿だが、房原のそんな姿は牧瀬にとっては何故だか妙に可愛くて、最近ハマっている。  生まれたての目も開いてない子犬みたいで、そばでずっと離れず見ていたい感じ。  自分でもマニアックだと思うが、可愛いんだから仕方がない。それが見たくてつい、ときどきこうやって用もないのに起こしてしまったりする。  牧瀬は彼の前に、コーヒーのカップを置いた。熱々のブラック。甘党の房原のために、トーストにバターと蜂蜜を塗ってやる。普段は放ったらかしだが、朝だけはマメに面倒をみる。だって子犬だし。  「イチゴジャムじゃないんすか?」  目の前に置かれたハニートーストに、房原が残念そうに言う。  「切れてるんだよ、今。こんど明治屋行ったとき買っとく」  「えー…。週末までいけないじゃないですかー」  房原が開ききっていない目で、恨めしそうに呟く。  たいがいにおいてはかなり大雑把な房原だが、ときどき妙にへんなとこに拘る。なぜか彼はジャムトースト派で、それも明治屋の甘さ控えめの苺ジャムが好きらしい。  「うるさい、贅沢いうな。黙って食え」  それでも、牧瀬にそう一喝されて、房原は半分寝ながらも、素直にぼそぼそとトーストを齧る。  よくある朝の風景。今日もいつもと同じ、平和で幸せな一日。  牧瀬はそう、思っていた。この時点では。  「なぁなぁ、聞いたか? 優佳さんの今度の相手」  「お、何? もう新たな犠牲者、じゃない、兄弟が生まれたのか?」  定例会議を終えて寄った男子トイレ。手洗いの鏡の前で、営業マンがひそひそと、でも充分周りに聞こえる声で、噂話に興じている。  あまり近寄りたくはなかったが仕方がない、手洗いは3つしかないのだ。用を足し終えた牧瀬は、仕方なくそっと彼らの横で手を洗う。  一般に、「噂好きなのは女」という認識があるが、この会社の人間を見ている限り、それは嘘だと牧瀬は思う。出版業界の体質なのか、社内で誰と誰が付き合ってるとか別れたとか、不倫してるとか離婚したとか、その理由からなにから、何故かほとんどの社員に筒抜けなのだ。社内版ゴシップ誌が作れそうな勢いだ。  それはそれで、ある意味すごい情報網だと思う。特に営業マンはやたら詳しい。よく言えば好奇心旺盛で情報収集が得意なのだろうが、下世話と言えば、下世話。  牧瀬は、長めの茶髪――地毛だが――に服装もラフで、いかにも業界人な見た目だが、性格は地味で堅実な常識派なので、そういった噂話には興味もないし、あまり詳しくはない。  しかしそんな牧瀬でも、その優佳さんの噂は聞いたことがあった。特別美人というわけではないが、かなりの有名人。理由はといえば、「すぐヤラせてくれる」というかなり失礼な噂。  営業所で、原稿担当の仕事をしているので仕事上でもいろいろな人間と関わるし、それなりにデカイ会社なので営業マンを中心に男性と知り合う機会は多い。  とはいえ誰でもと言うわけでもなく、相手にするのは彼女が気に入った男性のみだが。気に入れば彼女の方から誘ってくるし、好みの男性を落とすのが生き甲斐らしい。あくまで噂だが――。  で、社内には、いわゆる「兄弟」がたくさんいる、という訳だった。やれやれ…。  だが、思わず溜息をついた牧瀬の耳に思わぬ名前が飛び込んできた。  「なんと、制作部の房原だってさー」  「おお、ついに制作マンにまで手を広げたのか!」  牧瀬は思わず、盛り上がる二人の方に勢いよく顔を向けてしまっていた。そこで始めて隣にいるのが牧瀬だと気付いたらしい営業マンは、あ、と軽く牧瀬に会釈する。  「あ、ども、牧瀬さん。いつもご面倒おかけしてます!」  まだ若い営業マンは、一応礼儀正しく挨拶をする。若く見える牧瀬だが、年も職級も彼らよりは上なので。  「今の話…」  いつもなら、絶対に関わらない手合いの話だが、房原の名前が出た以上、そうはいかない。房原は自分の直属の部下で、かわいい後輩で、――恋人なのだ。  「あ、そうそう! いや~、牧瀬さんとこのおっとり房原くん。優佳ねえさんに、頂かれちゃったみたいっすよ~。ほら、先週の金曜の新宿営業所の達成会。担当の制作マンも呼んだらしいんですよ。で、そこにやってきた房原くんをですね、こう、パクッとね」  二人は、品のない笑い方で爆笑する。思わず眉間に皺を寄せた牧瀬をみて、少し真面目な顔に戻った営業マンが続ける。  「いや、でもこれ確実な情報っすよ。べろんべろんに酔っぱらった房原くんと二人でタクシーに乗って、帰ったらしいですからね。ま、でも彼にとってはオイシイ経験っすよ。後腐れもないし」  そうフォローする男に、もう一人が、経験者は語るよな~。と意味深に笑う。なるほど、この男も「兄弟」のひとりというわけか。  そのまま、牧瀬は二人をおいてトイレを出た。平静を装ってはいるが、内心はかなりショックだった。ただの噂話だと無視したいけれど――。  実は牧瀬自身、前に一度優佳に誘われたことがあった。もちろんそのときは、やんわり遠回しに、お断りしたが。そのときの経験から考えても、彼女の噂はかなり真実に近いと思う。  それに、酔わせて頂いちゃう。というのは、牧瀬にはかなりグサリとくるフレーズだった。なにしろ二人が付き合いだしたのは、まさに牧瀬が房原を酔わせて頂いちゃったのが発端なのだから。  房原は酒に弱い。弱いくせに好きだし、勧められると断れない。とくに営業所の飲み会はやたら体育会系なので、客人扱いの制作マンとはいえ勧められるままに飲んでいれば、確実に潰される。  そして決定的な事実。金曜の夜、房原は帰って来なかった――。  勢いよく廊下を突き進んでいた牧瀬は、思わず立ち止まる。  二人が初めて結ばれたあの夜から、程なくして房原は牧瀬の部屋に転がりこんできた。一緒に住みだして2ヶ月ちょっと。まだ浮気するには早すぎるんじゃないのか?! いや、何年経ったからってしていいもんじゃないけど。けど、いくらなんでも早すぎる!!――と、やり場のない怒りを抱えながら、そのまま牧瀬はまた、どかどかと歩き出す。  突き当たりの制作のフロアに戻り自分の席に向かう途中、ちらりと房原の席を見遣る。房原は、いなかった。まだ出勤してきている様子はない。  「今日、房原は?何時出社?」  牧瀬は不機嫌な声で、誰にともなく訊いた。  「今日は、同行です~。直行するそうなんで、会社に来るのは昼過ぎって言ってましたよ~」  房原と同じチームの宮井が、のほほんと答える。同行というのは、営業マンと一緒にクライアントとの打ち合わせやプレゼンに行くことで、実際の広告を作るのは制作マンだから、直接打ち合わせたり説明した方が双方のイメージが固まりやすい為、大口の仕事のときには頻繁にあることだった。  そう言えば、夕べ房原がそんなことを言ってたような気がする。  言われてから牧瀬は思い出す。机についてからも、さっきの話が頭から離れなくて、仕事が手に着かない。  牧瀬はいらいらとした手つきでデスクの引き出しを開けると、奥の方にしまいこんでいたセブンスターを取り出した。ここしばらく本数を控えようと努力していた煙草だが、こんな気分のときにモク無しでいられるか、と開き直る。 (大体、房原が煙草止めろ止めろってうるさいから…。――ああ、もう!)  牧瀬は乱暴に取り出した煙草を咥えて、火をつける。いくら考えないようにしようとしてもだめだった。仕事中なのに、と我ながら情けなくなる。  そんな状態で気もそぞろのうちに時間は過ぎ、そろそろ昼休みになろうかという頃、編集の今井が慌ててやってきた。  「ちょっと~!! まきちゃん、今週の『choise』の表4誰?!」  彼女は牧瀬とは同期で、本誌全体の進行管理やチェックが仕事だ。表4とは裏表紙のことを言う。  「なに? 何か問題あった?」   牧瀬は慌てて、今週の分担表を見る。表4は――、房原だった。  「画像データ、入稿されてないよ~。ダミーのまま行ってるみたいなの!取りあえず、今止めて貰ってるけど、今すぐ入稿し直さないと、間に合わないって」  焦ってそう言いながら、出力会社から戻ってきた色校正紙を見せる。確かに、明らかに一部分ダミーの写真が載っていて、現物とは違うのは一目瞭然だった。  表4の一面広告の掲載料金は一番高額で、ここを押さえてるのは大事なクライアントだし、ビジュアル面での大きなミスは雑誌全体のクオリティや読者の信頼度にも関わってくる。このまま本になったりしたら、おおごとだ。  この表4は週刊誌のものだからスケジュールもタイトで、特にチェックは慎重にしろって毎度言っているのにと、腹が立つ。  そう話している最中、房原が暢気に出社してきた。  「おはようっすー」  クライアントに会うための、珍しいスーツ姿。着馴れていないから、どうもしっくりこない。背も高くて、体格もいいのに全然似合って見えないのは、きっとこの緊張感のないぽよよん顔のせいだ。見慣れたはずの温和な顔が、なんだか今日はやけに腹立たしい。  「房原! 表4の写真、どこにあんだよ!」  「へ?」  帰ってきていきなりの牧瀬の怒鳴り声に、房原はきょとんとした顔をしている。  「これ、ダミーでしょ~??」  仁王立ちの牧瀬の横で、今井が色校をぴらぴらと振る。  「あ!」  「最終稿のデータ、すぐに入稿管理の私のフォルダに入れといてよ!」   あたふたとMACを立ち上げる房原に、それだけいうと今井は自分の部署に慌てて戻ってゆく。  「すみませーん! 今すぐ入れます~」  房原がMACに噛り付いたまま謝る。  「悪い! 今井」  背中に声をかける牧瀬に、  「ほんとよぉ! まきちゃん今度奢りだからね」  振り向いて、ひらひらを手を振ると自分の部署に慌てて戻っていった。まあ、今井ならなんとか間に合うように手を打ってくれるはずだ。   牧瀬がほっと息を吐いて振り向くと、データを送り終えた房原が叱られポーズで立っている。牧瀬のデスクの前で項垂れて、手を前に組み私が悪うございました、という態で。  「もう言われなくても、自分のミスの重大さは分かってるな? 深く反省して以後気をつけろ」  いつもなら、こんこんとお説教が続き、合いの手のようにバカとかボケとかカスとか言われるところだ。だが、今回は妙にあっさりした一言だけで、牧瀬はデスクについてさっさと仕事に戻ると、吸いかけの煙草に手を伸ばす。  ぽかんとした顔でしばらく突っ立っていた房原だが、もう顔をあげようとしない牧瀬と、灰皿に溜まった吸殻の山にちらりと目をやって、すごすごと自分のデスクに戻っていった。  その後姿を、こっそりディスプレイの影から盗み見る。肩を落としつつも何か釈然としない様子の、房原の頼りない肩。  今の牧瀬には房原に説教する余裕はなかった。なんだか別のことで理性をぶっ飛ばしてしまいそうで、あまり顔を突き合せたくないのだ。  7つも年下の部下に手を出してしまった牧瀬は、めでたく両思いにはなれたものの、どういうスタンスで付き合うべきなのか、いまだにはっきりとは掴めないでいた。  恋人同士――。そう括ってしまうのは簡単だが、ただでさえ男同士で、それも二人とも正真正銘のゲイというわけではない。房原には、いつか可愛い嫁さんを貰って幸せな家庭を築いていく。という選択肢だってあるのだ。もちろん、自分にも。  あまり深く考えないようにしようと、犬を一匹飼うくらいの気楽さで始まった付き合いだけれど――。    (ほんとに犬なら、よそで交尾してきてもそんな目くじら立てることもないし、こんなに気持ちが乱れることもないんだけどな…)    くるりと椅子を回して、背後の窓から空を見上げる。どんよりとした、降りそうで降らないうっとうしい空。  牧瀬は溜め息代わりに、白い煙を上に向かって長く吐き出す。今日は一日、仕事になりそうもなかった。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!