二日目の君

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【七月十八日、木曜日。外は蒸し暑い】  俺が牧瀬帆波に会ったのは、小学校に入る前のこと。父親の仕事の都合で隣の家へ引っ越してきた彼女に、俺が不躾に『おまえ、なまえは』と聞いたのが初めての会話だった気がする。  そういえばあの頃はよく笑ってたな。俺も、あいつも。  目を覚まして、しばらくぼんやりと部屋の壁を眺めた。そして気だるげに身体を起こす。寝ぼけた頭で部屋を見回したが、死神の姿はどこにも見えない。  時計を見ると、午前八時を回っていた。もう学校には間に合わない。完全に遅刻だ。  焦りを通り越して、もう休んでしまおうかとさえ考えた。もうすぐ死んでしまうのに呑気なヤツだと指を差されるかもしれないが、三大欲求には勝てないのだとこんなところで思い知らされた。  今日は父は仕事で朝早いと言っていたし、大学生の兄も昨日から友人の家に泊まっているらしく家の中はだいぶ静かだった。  大きなあくびをしながら、ベッドを降りた。顔を洗って身支度をする。自室に戻って制服に着替え終わったあと、部屋の本棚に目を向けた。  あいつの笑った顔って、どんなだったっけ。  ここ数年、天真爛漫(てんしんらんまん)に笑顔を作っていた記憶はほとんどないし、小鳥のさえずりみたいにかわいらしく笑っていた記憶もない。ぐるぐると頭の中で考えながら、気づけばアルバムに手を出していた。  初めに目に映った写真は、幼稚園の運動会の時のものだった。レジャーシートの上でふたり並んで映っている。ダブルピースで顔を隠した彼女は照れくさそうに笑い、俺はおにぎりを片手にピースを大きく空に向かって掲げていた。  まだ互いを深く知らない俺たちは、とても楽しそうに見えた。この写真からは、子供ならではのなににも縛られない無邪気があふれている。 「おや、かわいいですね。六歳くらいですか?」 「いや、この辺はもうランドセル背負ってるから、たぶん七歳……って、あ」  げっと顔を上げれば、その丸眼鏡の奥から二重幅の広い大きな目が糸を引くように半円を描いた。そしてさも当然のように部屋に居座りながら呑気に挨拶をした。 「おはようございます」 「っあんた! ……なんでそう急に現れるんだよ。わざとなのか? また驚かせたいのか? 暇なのか!?」 「あなたがまたイレギュラーな行動を起こすかもしれないので時々様子を見に来ることにしたんです……ま、建前ですけど」 「は? 建前?」  ぼそりと最後に聞こえたつぶやきに眉根を寄せた。  おいおい、なにか聞こえたぞ。  千々波は怪訝そうな俺を物ともしない様子でくすくすと笑っている。 「本当は人を驚かせるのけっこう楽しいんですよね。あと、うつし世に降りるのがわりと好きで」 「……あんた、性格悪いな」 「ふふ、死神ですから」 「…………」  否定しないのかよ。大体、死神とか……正直関係ない気がする。  あきれつつ再度アルバムに視線を落とした。このページは家族写真がメインらしく、兄や父がたくさん写っていた。 「お兄様は髪の毛が黒いですよね。目尻も垂れて優しげですけど、あなたはどちらかというと切れ長ですし、表情もクールな感じがします」 「まったく褒めてねえな。兄貴の顔は父さん似で、俺は母さん似だから」 「では、あなたの綺麗な茶色の髪はお母様似ですか」  千々波の言葉に「まあ……」と適当に流しながら、俺はページをめくった。すると、左下の写真から極端に俺たちの笑顔が減り始めた。合わせて写真の数も減少していた。  そうだ、この頃は……。 「写真、少なくなりましたね」 「母さんが入院してから、撮る機会がなくなったから」  写真が好きだった母は、いつも俺たちを撮ってくれていた。『ちゃんと思い出を残しておこうね』って、毎日のようにカメラを構えていた。だから母が亡くなってからは、行事以外にカメラを持ち出すことがなくなった。 「母さんがいなくなったらうちは男しかいないから、写真を撮ることもなくなったんだ」 「そうですか。確かに、潮見咲(さき)さんはよく写真撮影をしていたと生涯履歴に書いてありました」  名前を流暢に告げたので、思わず顔を上げて千々波を見る。 「母さんのこと、調べたのか」 「もちろん、自分が担当する方の家族構成は必要最低限調べますよ」 「……母さんは、元気?」  元気かどうかを質問するのもおかしな話だったがつい聞いてしまった。純粋に知りたかった。記憶の中の母は輪郭を失ったように不鮮明でぼんやりとしているから。 「その問いに答えるのは難しくはありますが、あえて答えるなら潮見咲さんはもう既に輪廻転生を終えています。彼女の心になにか引っかかるものがあれば、輪廻転生はできていません。つまり、元気でした、というのが正解でしょう」  随分説明的だったが、すんなり理解した。  そうか、心残りはなかったのか、母さん。もしそうなら、よかった。  いつもいつも『丈夫に生んであげられなくてごめんね』と口癖のように言っていた母は、死に際まで俺のことを心配していた。もちろん兄についても気にかけていたけど、身体の弱い俺をよく気遣ってくれていた。  そんな母の気持ちを子供ながらなんとなく察していたのに、俺はあの頃、ちっとも汲もうともしなかった。俺自身は他のみんなと変わらない元気な子供だと思い込みたかったから。なにを言われても、これくらい平気だとワガママに虚勢を張っていた。案ずる母に何度も『うるさい』と反抗もした。  俺は昔から無神経なんだ。わかっているからなおさら、この世にいなくてもいいんじゃないかと思えてしまう。 「どうかしましたか?」
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