出戻り

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「まぁ、まぁ。こちらが涼様の姉上様?」 沙雨は緋色の紅梅の重ね袿に身を包み、愛らしい大きな目を更に丸くする。  小柄な沙雨は、稚さのある可愛らしい面差しだが、気質はしっかりとした芯のある女人に見受けらえた。 「義妹が出来たことが喜ばしく、突然にこのように現れてしまいました。白昼夢でも見たと、無礼をお忘れくださいませね」 優美に頭を垂れる涼音もこの時ばかりは姫使用だ。薄紫の立涌(たてわく)の地模様に楓紋様の小袿に着替えていた。 「『鞍馬小天狗』として名乗る訳じゃないだろう?なら姫使用に戻りなよね」とは、先の(りょう)の言だった。 「ふふ。懐かしいものですね。このように美しい衣に袖を通すのは何年ぶりかしら」 浮き立つ心のままに、姫様らしからぬ(てい)で、裾を翻してはしたなく舞う姉に、涼は呆れた。 「ずっと身を隠している気でいるのか?一の姫として戻って来ればいい」 「いいえ。これはこれで嬉しいけれど、私は今の市井での暮らしをずっと気に入っているの」 何処か名の在る家に嫁いで、夫となる者を支え、家に安寧をもたらす。それは、一つの幸せの形だろう。 しかし、自由な身を得た今となっては、そんな暮らしは色褪せて見えもした。 しかしながら、そんな重責に身を置く沙雨に敬意を払わずにはいられない。 「沙雨殿、困りごとがあればいつでもこの姉をお頼りくださいませ。不肖ながら私が沙雨殿をお慰めに飛んでまいります」 胸に手を添え、約束する。 「姉上様。そんな……そんな」 高名な絵師が姿絵にしたいと切望するに違いない麗しさ。思わず見惚れてしまう凛々しい姉姫に、熱い眼差しを向けられた沙雨は、頬を朱に染めた。 「お疑いですか?その証に祝いの品としてこれを一つ添えてくださりませ」 袂より取り出したのは、手巾に包まれた小さな酒杯(さかづき)。それは桜貝のような淡い色味の杯。 「これは?」 「稲葉山の火の神様を祀る市之倉の窯元で焼いたものです。杯を満たして願を掛ければ、私の夢枕に立つことが叶いますのでね」 「「ほ、本当に!?」」 沙雨と涼は互いに顔を見合わせ、半信半疑の様子だった。 「はい。そのように(まじな)いを掛けました」 自信をもって頷く涼音に涼は苦笑する。 「なら、馳せ参じるのは姉さまでなく、沙雨の方じゃないの?」 「あら、そうですわね」 再び同じ顔をしている新婚夫婦に、涼音の方こそ苦笑する。 ――ふふ。まるで(つがい)の様ね。 「古来より、妻の危機は夫の危機と決まっております。(りょう)を助けるべく駆けるは、妻である沙雨殿の務めかと」 仰々しく伏せて応える涼音に、沙雨は口の巧さに感嘆しながらも得心する。 「本当に、姉上様は涼様の姉上様ですね」 「私は姉上ほど口達者では無いよ?それに心配せずとも俺は沙雨を泣かせたりなどしないから」 涼は心なしか姉に対抗意識を燃やす。 「左様にね。でも、女の私でしか乗れない話もあるでしょう?」 「女?まさか姉さんが?」 涼は大様に肩を竦めてみせた。 「ええ。あなたのだもの」 睨み付けながら横柄に胸を反らせた。 「ふふふ。そうですわね。涼様の困りごとでも姉上様にご相談しましょうか」 沙雨は綻ばせた口元を扇で隠しながら、興に乗る。 「それは聞き捨てならないな。沙雨を困らせるほどの事をしたかな?」 『ええ、夜毎』 艶っぽく涼に囁く様はとても二つ年下とは思えぬ貫禄があった。 涼音には聴き取れぬ囁きであったが、室内の空気が濃度を増したのは明らかだ。 「これはご馳走さま。小野の行く末は安泰です」 仲睦まじい様子の二人を(はばか)って、涼音はその場を辞することにした。 ――ふふ。尻に敷かれる涼など物珍しい。
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