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『秋時、今日は市井で桜の宴があるのでしょう?』
秋時の袂を引いてせがむのは八つになる幼い双子、一姫(涼音)と若君(涼)だった。目をキラキラさせて十三になる秋時を兄のように慕っている。
「宴とは少し趣が違います。春の社日祭りのようなものですね」
「深湯神事もあるの!?」
深湯神事とは、神前に大釜を供えて湯を沸かし、宮司や巫女が束ねた笹の葉を入れて、その湯を全身に奮い浴びて神の神託を仰ぐ儀式。その湯を浴びれば無病息災に一年を過ごすことが出来ると言うので、皆はこぞって並ぶのだ。
春社日と聞いて、更に目を輝かせて訊ねる若君に、しまったと秋時は首を大袈裟に振る。
「秋時の選んだ言葉が悪うございました。市井の者らの花見は神事ではございませんので、少しばかり市が立つだけにございます」
桜の川辺に市が立ち、御座を広げて飲み食いするのだ。高貴な身である者が向かうところでは無い。
「でも白拍子が桜を見ながら唄に舞うのでしょう?」
一姫が更に秋時の袂を引いた。
白拍子とは言え、あれは一姫が思い描いた趣とも少し違う。酒に酔う男の相手をする遊女だと、秋時は伝えようにも伝えきれない。
「今日は牛車が出せませぬ故、行かれませんよ。お館様がお使いですのでね」
「ええぇ。行って良いと、昨日にはお許しを得ていたよ?」
――あの親父殿は……!
若君の言葉に秋時は額に手を当て項垂れた。
「すみません。お館様に火急が出来たようで、諦めねばならなかったのです」
「馬ならあるのではないの?」
伺うように秋時の顔を覗き込むのは一姫だ。
「一姫様はまだ馬を巧く操れませんでしょう?」
仔馬の時分より慣らした為か、若君(涼)はそれなりに操ったが、一姫(涼音)は危なっかしいばかりだった。
「はい。だから秋時が乗せてくださりませ」
幼いながらもしっかりとした物言いに、秋時はたじろいだ。
――お小さいと言っても女子。言葉が聡い。
「涼は私が乗せて差し上げるよ」
若君が息巻いて胸を張るので、秋時は大いに困った。
「若君には……(まだ無理です)」
「涼の手綱はとても速くて怖いもの。秋時は涼音に合わせてくれるでしょう?」
涼の誇りを傷つけることなく諭す話しぶりだと、秋時は胸の内で感心してしまう。
そんな秋時に向かって掲げられた、一姫の諸手の可愛らしさは際立っていた。ふわりと抱きかかえた柔らかさと軽さに、野山で捕らえた兎を思い起こす。しっかりとこの手に残ったそれとは違う命の尊さ。
――この方をずっとこうして御守りできれば……。
子供心に誓ったそれは、淡い恋心の始まりだったと今では分かる。
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