序章

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序章

 先生は、大体理科準備室にいた。  私が姫島屋先生を思い出すと、母校の理科準備室と一緒に、ふわりとブラックコーヒーの香りも蘇る。  先生は、大人の男の人だった。  私が高校生の頃、二十五、六、だったから、十歳近く歳が離れていることになる。  今年、二十七歳になった私からすれば、当時の姫島屋先生は年下ということになるが、不思議と、あの頃の先生はすでに今の私よりずっと大人びていたように思う。  先生の顔立ちは、かなり整っていた。  堀が深く、すっと伸びた鼻梁に、引き締まった薄い唇。痩せすぎなところもあるが、細い頬や常に皴を寄せた眉間も、何もかもが、美しかった。  もっとも、私が姫島屋先生に好意を抱いていたから、そのように見えたのかもしれない。  高校生活三年間、一度たりとも、姫島屋先生の見目を褒める生徒を見たことがなかったから。  正直、姫島屋先生に対する周りからの評判は、あまりよくなかった。  姫島屋先生は、良くも悪くも真っ直ぐな人で、生徒指導としての立場を遵守する人だった。ゆえに、僅かな風紀の乱れも許さず、今では時代遅れと言われるかもしれないが、靴下やスカートの丈、制服の乱れ、髪型などまで、細かく指導をしていた。  授業はわかりやすいという話だ。  あいにく、私は姫島屋先生が受け持つ学年とは違ったため、姫島屋先生の授業を受けたことがない。日常の学校生活でも関わることはなく、登校時に校門に立つ先生を見かけるほかは、放課後、私から理科準備室へ向かわないと、話す機会はなかった。  そんな私が先生と知り合ったのは、日常のちょっとした挨拶からだった。たしか、職員室を出たときにばったりと鉢合わせをして、「こんにちは。先生、ネクタイ歪んでますよ」と言って、ささっと手直しをしたときからだ。  今思えば、職員室の前で、生徒指導の先生になんてことを言ったんだろうと思う。  けれど、紆余曲折――というほどのこともないが、それがきっかけで、私は姫島屋先生と話すようになった。  放課後、理科準備室へ行って、他愛のない話をする。  どんなにつらい授業があっても、友達と喧嘩しても、姫島屋先生と話していると、穏やか気持ちになれた。  きっと、先生も同じように感じてくれている。  高校生の私は、純粋無垢で、姫島屋先生が「教師」であることの意味を、考えていなかったのだ。  高校を卒業した私は、しばらく多忙な日々を過ごして。  落ち着いたころに、姫島屋先生に連絡を取った。  メールは宛先不明で戻ってくるし、メッセージアプリはブロックされており、電話は何度かけても通話になることがなかった。  完全なる拒絶に、やっと私は、姫島屋先生が教師として生徒である私を、仕方なく構ってくれていたんだと、理解した。
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