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1、
「俺、好きな人が出来たんです」
そう私に言ったのは、体育教師のナル千代こと、緑川犬千代だった。
昼休み、わざわざ中等部の校舎まで来て、「神崎先生ちょっといいですか」と、すまなそうな顔で呼び出すから、何かと思ったら。
ザ体育教師といった風体の緑川先生は、とても大柄だ。
愛嬌のある顔立ちと、にっかり笑う朗らかな笑みは人懐っこい印象を与えるので、昔近所にいた大型犬を彷彿とさせる。
親切な先生だが、少し思い込みの激しいところがあって。
なぜか自分を『すごく頼れる大人で格好いい人間』と思っているらしく、生徒からはナルシストな犬千代、略してナル千代と呼ばれている。
「あ、あの、神崎先生……?」
何も返事をしない私に、緑川先生は、慌てたように身を屈めた。
目線が近くなって、さりげなく、一歩後ろへ退ける。
「いきなりこんなこと、すみません。ショックですよね」
「あの、別に」
「いいんですっ、隠さなくて! 俺、本当に神崎先生のこと好きでした。先生は、何も悪くないんです。悪いのは全部、心変わりをした俺なんですから!」
顔を前で両手を合わせ、ごめんなさいと頭をさげる緑川先生。
「あの、辞めてください。本当に大丈夫ですから、だって私たち」
付き合って、ないですよね?
今年二十七歳になった私に、彼氏はいない。
現在の勤め先でもあるここ、山城ヶ原村南高等学校へ転勤する少し前に、三年間付き合った彼氏にふられている。
ふられるに足る理由があったし、過去の彼氏はもういい。
そして、現在も彼氏はいない。
私は静かに一度深呼吸をして、何度も謝罪の言葉を口にしている緑川先生に向かって、口をひらいた。
「緑川先生、あのですね」
「あっ、ミコ先生っ。違うんですっ、これはっ」
私の言葉を遮って、緑川先生が言う。
言葉を投げた先は、私の遥か背後だった。
振り返ると、さもたまたま通りかかった風体で、きょとんとしているミコ先生がいた。
今年中等部に就職した新米教師で、私の後輩に当たる。新卒ぴちぴちで、こぼれるくらい大きな目が子犬のように愛らしいと、一部の男性教諭から評判だ。
ミコ先生は、担当の国語科目の教科書を両手で抱えて、気まずいような、微妙な笑みを浮かべている。
「ご、ごめんなさい。えっと、私、向こうへ行きますねっ」
「いえ! 本当に違うんです。俺、神崎先生とは、もう、なんでもないんで!」
まさにその通りだ。
その通りだけど、「もうなんでもない」ってなんだ。
最初から、付き合ってなんかいないのに。
ミコ先生のほうへ走っていく緑川先生は、真面目さゆえか、馬鹿さゆえか、懸命に言い訳をしている。
そんな緑川先生に、ミコ先生はふにゃりと笑って「そうなんですね」と言った。
「信じてもらえるんですか!」
「はい。だって、緑川先生は嘘を言わないかたですもん」
「ミコ先生っ、ありがとうございます!」
なにが、ありがとうなんだろう。
仲良く肩を並べて、職員室の方へ歩いていくふたり。ミコ先生、そっちから歩いてきたのに戻っちゃうの。どこへ行くつもりだった
そんな疑問は、肩越しに振り向いたミコ先生のニヤリとした意地の悪い笑みで、何もかもが解決した。
「やっぱり、ミコ先生って優しいですね。可愛いだけじゃなくて」
「あらぁ、緑川先生ってば、もう」
なんだか、腹の底がもやっとした。
泥のような何かが溜まってしまう、不快感。
でも、でも、でも。
今日の飲み会で、ビールを飲んで発散してやる!
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