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「俺、好きな人が出来たんです」  そう私に言ったのは、体育教師のナル千代こと、緑川犬千代だった。  昼休み、わざわざ中等部の校舎まで来て、「神崎先生ちょっといいですか」と、すまなそうな顔で呼び出すから、何かと思ったら。  ザ体育教師といった風体の緑川先生は、とても大柄だ。  愛嬌のある顔立ちと、にっかり笑う朗らかな笑みは人懐っこい印象を与えるので、昔近所にいた大型犬を彷彿とさせる。  親切な先生だが、少し思い込みの激しいところがあって。  なぜか自分を『すごく頼れる大人で格好いい人間』と思っているらしく、生徒からはナルシストな犬千代、略してナル千代と呼ばれている。 「あ、あの、神崎先生……?」  何も返事をしない私に、緑川先生は、慌てたように身を屈めた。  目線が近くなって、さりげなく、一歩後ろへ退ける。 「いきなりこんなこと、すみません。ショックですよね」 「あの、別に」 「いいんですっ、隠さなくて! 俺、本当に神崎先生のこと好きでした。先生は、何も悪くないんです。悪いのは全部、心変わりをした俺なんですから!」  顔を前で両手を合わせ、ごめんなさいと頭をさげる緑川先生。 「あの、辞めてください。本当に大丈夫ですから、だって私たち」  付き合って、ないですよね?  今年二十七歳になった私に、彼氏はいない。  現在の勤め先でもあるここ、山城ヶ原村南高等学校へ転勤する少し前に、三年間付き合った彼氏にふられている。  ふられるに足る理由があったし、過去の彼氏はもういい。  そして、現在も彼氏はいない。  私は静かに一度深呼吸をして、何度も謝罪の言葉を口にしている緑川先生に向かって、口をひらいた。 「緑川先生、あのですね」 「あっ、ミコ先生っ。違うんですっ、これはっ」  私の言葉を遮って、緑川先生が言う。  言葉を投げた先は、私の遥か背後だった。  振り返ると、さもたまたま通りかかった風体で、きょとんとしているミコ先生がいた。  今年中等部に就職した新米教師で、私の後輩に当たる。新卒ぴちぴちで、こぼれるくらい大きな目が子犬のように愛らしいと、一部の男性教諭から評判だ。  ミコ先生は、担当の国語科目の教科書を両手で抱えて、気まずいような、微妙な笑みを浮かべている。 「ご、ごめんなさい。えっと、私、向こうへ行きますねっ」 「いえ! 本当に違うんです。俺、神崎先生とは、もう、なんでもないんで!」  まさにその通りだ。  その通りだけど、「もうなんでもない」ってなんだ。  最初から、付き合ってなんかいないのに。  ミコ先生のほうへ走っていく緑川先生は、真面目さゆえか、馬鹿さゆえか、懸命に言い訳をしている。  そんな緑川先生に、ミコ先生はふにゃりと笑って「そうなんですね」と言った。 「信じてもらえるんですか!」 「はい。だって、緑川先生は嘘を言わないかたですもん」 「ミコ先生っ、ありがとうございます!」  なにが、ありがとうなんだろう。  仲良く肩を並べて、職員室の方へ歩いていくふたり。ミコ先生、そっちから歩いてきたのに戻っちゃうの。どこへ行くつもりだった  そんな疑問は、肩越しに振り向いたミコ先生のニヤリとした意地の悪い笑みで、何もかもが解決した。 「やっぱり、ミコ先生って優しいですね。可愛いだけじゃなくて」 「あらぁ、緑川先生ってば、もう」  なんだか、腹の底がもやっとした。  泥のような何かが溜まってしまう、不快感。  でも、でも、でも。  今日の飲み会で、ビールを飲んで発散してやる!
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