いよいよ最終章

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いよいよ最終章

18章・ヒッキー君の最後の手紙        前略。前川菜々美様。  今まで付き合ってもらって有り難うございました。僕は自分の犯した罪の結果として死刑になります。奥山さん一家には本当に可愛想なことをしてしまいました。深く反省しております。特に子供と、その両親を殺めてしまったことは大きな間違いでした。まだ未来のある人達の将来を奪ってしまったわけですから---。また、奥山のおじいさんを殺したのも私の逆恨みの結果だったと思っております。本当に悪いことをしたと思っております。  ただ、世間の皆様に知っていただきたいことがあります。僕は二十年という長い間引きこもっておりました。そして精神病院を出たばかりでした。ちまたでは「また引きこもりが事件を起こした」とか「精神病院にいる人は怖い」とか言った誤解を僕のせいで与えてしまったことと思います。菜々美さんなら分かると思うのですが、精神科を受診している人の犯罪率というのは一般人よりも低いのです。その理由は、彼らは(自分も含めて)犯罪を犯すようなエネルギーがないからです。  僕はどうかしてました。なぜあんなことをしてしまったのか今でもわかりません。あの頃は、被害妄想になっていて、窓の下を人が通るたびに自分の悪口を言っているように聞こえていました。  「仕事もせずに何をしてるのかしら」とか「これが穀潰しの村沢亮介の家よ」なんて言葉が本当に聞こえていたのです。  僕は「穀潰し」と言われて傷つきました。僕の「自己責任」で「穀潰し」になったのでしょうか?バブル崩壊後の「失われた二十年」で私のような「穀潰し」が量産されています。僕の友人を見てみると、大学を出たのに未だにフリーターをやっている人が多くいます。その「失われた二十年」を僕は「引きこもり」として生きてきました。    事の発端は中学一年の時のいじめです。  僕は元々気が弱く、暴力を振るったりしたことがありません。小さい頃にピアノを習っていて、ピアノを弾くことだけが楽しみの少年でした。家族は両親と兄と妹です。兄は私と違って出来がよく、親から比較されて育ちました。妹も有名私大を出ております。自分だけが出来が悪かったのです。両親も、ともに大学を出ていて、学生運動をやっていた時に知り合って結婚したと聞いております。だから労働歌なんかをよく教えてもらいました。父が歌っていた「インターナショナル」をすぐに聞き覚えてピアノで弾いた時には父は大喜びでした。将来は音楽の先生になるのが夢でした。あの大平記念病院で僕がショパンを弾いていたのを覚えていますか?  こんな僕の人生は中学一年の時に狂ってしまいました。   実は僕には「醜形恐怖」という病気がありました。自分の顔が醜く、人に不快な思いを抱かせてしまうと思い込んでいたのでした。だから、当時はずっとマスクをしていました。それが気持ち悪いと言われていじめられたのです。カウンセリングも受けました。カウンセラーは女性の方でした。  「あなたは本当に自分が醜いと思っていますか?」と言われました。  「そうです。だから俺の顔を見たらみんな逃げるのです」と答えたら、  「本当にみんなが逃げるのですか?」と聞きました。  「『醜い俺をみているな』と思った瞬間に、みんなが心を読まれたと思って逃げるのです」と答えました。カウンセラーはしきりに医者に行くように勧めました。そうして醜形恐怖という病名を頂いたのです。  それから、クラスのみんなにいじめられたのですが、最も非道かったのはクラス担任でした。  学校という所は無法地帯です。いじめが日常茶飯事のように行われ、教師も「クラスの連帯」のために僕をいじめたのです。体育館の裏で何回も殴られたり蹴られたり、トイレにおし込められて放水されたりしました。  教師という連中は「クラスの連帯」のためなら何でもします。昔東京の富士見中学で「葬式ごっこ」事件があったのを知ってますか?いじめられっ子の葬式をみんなでやって教師もそれに加わっていたのです。「クラスの連帯」のためなのです。連帯のためにスケープゴートが必要だったのです。  こんなことが重なったのに両親は何もしてくれませんでした。なぜこの時に自殺しなかったのかということが悔やまれてなりません。自殺によって担任教師やクラスメイトの非道を訴えるという最後の選択があったんだなあと今でも思います。また、両親は僕のことを認めてくれたりかばってくれたりするどころか「そんな喧嘩なんかする暇があったら勉強しろ」とばかり言いました。兄も妹も一流大学へ行ってます。だから「兄や妹は頑張っているのにお前はピアノを弾くことしか能がないのか?」とよく言われました。校長室の前で給食を食べたこともあります。家出してトラックに乗って名古屋まで行ったこともあります。これが勉強も運動もできない僕のとれる唯一の「反抗」だったのです。  そして中一の二学期から不登校になり、部屋にひきこもるようになりました。  僕は焦りました。このままではいけないと本当に思いました。しかし月日は無情にも過ぎ去っていきました。  全く、時間というものほど残酷なものはありません。いじめられたことも、みんな「時間が経てば消える」と言いました。カウンセラーでさえそう言いました。しかし、僕にとって、それは消えるどころか、癒やしがたいトラウマとして心に残りました。いじめられる奴はどこへ行ってもいじめられるのです。  僕の好きな漫画家の山田花子は書いています。  「いじめられる奴はどこへ行ってもいじめられる。嫌なら自殺しちまいな。悪いことは言わない。生きたところでどうせ負け犬。思いっきりよく散ろう」と。  これはファントム=オブ=パラダイスにあった言葉だそうですが、本当にそう思います。僕はどこへ行ってもいじめられてきました。だから部屋から出たくなかったのです。   そして十年が経ちました。親は相変わらず「勉強していい高校へ行って大学へ行って就職してくれ」と言い、ただでさえ焦っている僕にプレッシャーをかけます。そして「○○君がどこそこの大学に入った」とか「○○君がどこそこの大企業に内定をもらった」などという話ばかりするのです。僕だって苦しいんです。しかしわかってもらえませんでした。  父も母も学生運動をやっていて、大人に反抗していたはずなのに、いつの間にかサラリーマンになってしまったのです。そして「昭和時代」の考え方を僕に押しつけてきます。終身雇用制と年功序列型賃金が厳として存在し、頑張らなくても出世の流れに乗れた時代のことです。曰く「とにかく大学は出てくれ。それから就職活動をしていい会社に入るんや」とか「兄や妹を見習って早く結婚して家庭を持ち、老後も安心できるようにするんや」とか。医者から「『高校へ行け』とか『大学へ行け』は禁句だ」と言われているにも関わらずです。  しかし今の現実をよく見て下さい。引きこもり百万人、ニート八五万人、若年無業者二一三万人、不登校十二万人、派遣労働者は全労働者の四十%、自殺者は三万人です。そして社会へ出ても厳しい競争がついてきて、競争に勝った人でも過労死したり鬱病になったりしているのです。バブルがはじけて僕達に残ったものは「競争に負けて引きこもりになるか、勝っても過労死するか」の選択なのです。僕は負けてしまいましたが---。  そして引きこもり始めて十年くらい経った時でしょうか?親父が「中村塾」というスパルタのフリースクールに僕を入れました。あの殺人事件で有名になった塾です。そして、このフリースクールのスタッフの言った言葉が今でも忘れられません。  「おまえらは屑や。ただ飯食わしてもうて社会のために何の貢献もしてない。おまえらのような奴を屑と言うんや。」  僕のように仕事ができない人間は本当に「屑」なのでしょうか?生産性が常に問われるこの日本では確かに僕は「屑」でしょう。しかし、人間の価値は本当に「生産性」によって決まるのでしょうか?医者やカウンセラーは言いました。  「人間は存在そのものが尊いのだ」と---。その意味がようやくわかりかけてきた頃にこんな言葉を投げかけられたのです。  そして僕はこの塾から逃げ出して警察へ知らせました。父親の態度が変わってきたのはこの頃からです。父親はこんなひどいフリースクールに僕を入れたことを後悔し、「とにかく生きていてくれさえしたらそれでいい」と僕を全肯定してくれるようになってきました。  そして、この塾を出てから僕は作業所に通い始めました。作業所ではみんなよくしてくれました。今思うと、あの作業所の人達にも「精神病患者は怖い」という観念を色々な人に与えてしまうことになり、結果的に迷惑をかけることになってしまいました。深く反省しております。もうこんなことは僕だけで十分です。僕だけが狂っていたのです。他の皆さんはそんなことありません。  そして、その後に医者の勧めで大平記念病院に入院しました。この病院は僕が後ほど入る精神病院と比べると雲泥の差がありました。本当に自由で楽しかったです。その頃にあなたと知り合いました。  大平記念病院を出てからは、また作業所に戻りました。それ以降のことはあなたの知る通りです。しかし、その後アルバイトに行ってからまた僕の生活は元へ戻りました。  その頃、生活保護を受けようとして市役所まで行ったのでしたが、追い返されました。これを「水際作戦」と言うらしいことは後で知りました。「引きこもっていました」と言うと、「税金も払ってない人に保護は出せません」と言われました。人間は税金を払うために働くそうです。本当でしょうか?  そんな頃から「声」が聞こえ始めたのです。そして行き着いた先は、精神病院に措置入院です。その病院の中で認知症で入院していた中一の時に僕をいじめた担任の栗田に会いました。あんなに酷いことを言ってみんなで除け者にしたのに、栗田は僕のことを覚えていませんでした。そりゃ、引きこもりになって不登校をしている僕に電話一本だけで済まそうとした教師です。あんなことは些末なことととして忘れてしまったのでしょう。教師なんてこんなものです。  そして、病院を出てから直ぐにあなたに会いに行きました。その夜のことは一生忘れないでしょう。あなたは何度も奥山さんを殺そうとする僕を止めました。でも、その頃には僕の決心は固まっていたのです。「奥山を殺す」ということが---。   あなたに会ってから一週間後の夜に奥山さんの家に侵入して子供と両親を殺しました。そして最後に奥山のじいさんの命まで奪ってしまったのです。  本当のことを言えば殺したい奴はいっぱいいました。中学一年の時の担任の栗田もそうです。それから僕をいじめた同級生も殺したかったです。でも、できませんでした。  みんなかどうかは分からないのですが、これが引きこもりの一生です。フリースクールの中村代表は「おまえら社会に出てない者にはストーリーというものがない」と言いました。でも、僕にはストーリーがあります。これが僕のストーリーです。死刑になる僕のストーリーです。喜んで引きこもる人なんかいません。必ず何かあるのです。いじめであったり病気であったり、人によって違いますが、必ず何かあるのです。ストーリーがあるのです。このストーリーを少しでも多くの人に知っていただきたく思います。そして考えてほしいと思います。先程も述べた通り、日本には百万人の引きこもり、三万人の自殺者、八十五万人のニート、二百十三万人の若年無業者、十二万人の不登校がいます。これをみんなは「自己責任」という一言でかたづけてしまっているのです。本当にそうでしょうか?僕は犯罪を犯したので死刑になりますが、今述べた人達は犯罪を犯したわけではありません。もう一度言いますが、僕の友人にも大学出のフリーターが沢山います。これらはみんな「自己責任」なのでしょうか?みんなバブル崩壊後の就職のない頃に何百社という会社を回って落とされたり、リストラされたりした人達です。これが「自己責任」と言えるのでしょうか?  それから、僕はよく人から「非生産的」な人間だと言われていたように思います。しかし、人間の価値というのは生産的か否かで決まるのでしょうか?父さんは、よく言ってました。  「生産的か否かは人間の価値にとって何の関係もない。人間は存在そのものが尊いんだ」と。  世間の物差しは「存在論」ではなくて「有益論」です。優生思想なんです。僕のような何の役にも立たない奴は死んだ方がいいという考え方です。この考えでヒトラーは何百万ものユダヤ人を殺しました。僕達のような障害者も殺しました。これが日本にはびこっている思想です。彼らは言います。  「働かざる者食うべからず」と---。  「生産性」が人間の価値を決めているのです。何か間違っているような気がするのは僕だけでしょうか?あなたはどう思いますか?死にそうなお婆さんに対して「死なないで」と言うのは、お婆さんが生産的で有益だからではなく、存在そのものが大切だからではないのでしょうか?  とにかく、もう二度と僕のような人間を作らないような社会になってほしいものです。僕は中学校にも行ってないから馬鹿です。しかし、父からこの日本の社会のことは色々と教わりました。だからといって僕の犯した罪を社会のせいにするのではありませんが、例えば学校の先生が保健室を覗いたことがあるのでしょうか?また、なぜ三万人もの人達が自殺をするのでしょうか?日本は先進国です。しかし、なんの保障もないフリーターになるか、正社員になっても過労死するかしかないこんな地獄のような所で文句一つ出ないということが不思議でなりません。かつて昭和時代には学生が機動隊を相手に暴れていました。高度成長期の「古き良き時代」にです。今では暴れようとする人はいません。それどころか、僕達のような精神障害を持った人間や引きこもりやニートの人達を「排除」しようとしています。  少しでも住みやすい、否、生きやすい社会になることを願って筆を置きます。 追伸  ところで、僕が病院を出てから作った、あなたのお腹にいる僕達の「赤ちゃん」はどうするおつもりですか? 村沢亮介。                了
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