いよいよ引きこもり生活の始まりや。

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いよいよ引きこもり生活の始まりや。

1章・ひきこもりの始まり  「亮介。お友達が迎えに来てるわよ。外へ出なさい」  母親が叫ぶ。しかし返事はなかった。そこで母親はその友人を家へ招き入れた。すると亮介が自分の部屋から包丁を持って現れた。  「何でいじめられるために学校なんか行かないといけないんや。お前ら帰れ!」そう言って包丁を振り回し始めた。二人の友人は直ちに出て行って難を避けた。そして亮介の刃は母親に向けられた。包丁を手にして母親に向かっていったのだ。  「おい、こら。おかん!あんなもん近づけるな!こんどあんなもん家へ呼んでみい、お前を刺すぞ」そう言って母親に包丁を突きつけようとした。母は避難した。  父親の洋三が帰ってきた。事の顛末は母親から聞いている。早速亮介を「説得」するために二階へ上がって行った。  「おい、亮介、出てこい。母さんに包丁を振り回したそうやないか。包丁はどこへやった」  「ここにあるわい。来るな。それから飯を持ってこい」  「あかん。学校へも行かないような奴に食わせる飯はない」  「腹が減ったんや。飯もってこい」  「持ってこなかったらどないするつもりや?」  「殺す」  その言葉で洋三は凍り付いた。これが今まで手塩にかけて子供を育ててきた結果なのか?しかしこれは明らかにおかしい。こんな息子は精神病院へ放り込みでもしないといけないのか?しかし、先ずは話し合いだ。  「わかった。それやったら飯持ってくる。話し合いしようやないか」  「お前と話すことなんかないんじゃ。俺がどんな気持ちで毎日学校へ行ってたと思っているんや?顔のことでいじめられてトイレで放水されて、それを先生まで一緒になってやるんやぞ。わかってるのか?このくそ親父がお前なんか死んでしまえ」  「亮介。何を言ってるんや。お前はもうここから出ないつもりか?学校はどないする?」  「学校なんか誰が行くかい。みんなで俺の醜い顔を馬鹿にしやがって」  洋三は強硬手段に出た。しばらくしてからバールを持ってくると、鍵を壊して亮介の部屋へ入ったのである。その途端、洋三の悲鳴にも似た絶叫が聞こえた。  「ぎゃー。痛いー!この馬鹿め。何をする」そう言ってその場にうずくまった。腹を刺されたらしい。血が流れている。亮介は本気だ。  救急車が呼ばれ、洋三は病院に運び込まれた。運ばれている中で洋三は叫んでいた。 「何しやがる。親に向かって!痛いやないか。この馬鹿が」  そして、この事件以後亮介の要求はエスカレートしていった。  先ず最初の要求は、は三食とも部屋の前に運んでこいと言うものであった。暴力に負けた洋三はこの要求を飲んだ。そして母親が三食とも部屋の前に置いておくことになった。そして次の要求が「テレビを持ってこい」であった。洋三は新品のテレビを買って亮介の部屋に取り付けた。  やがて引きこもりが長期化するに従ってネットが普及し始めた。亮介はこれも要求した。そして洋三は新しいパソコンを買ってきて亮介に買い与えた。こうして亮介の引きこもり生活は長期化することになる。  こうして三年の年月が流れた。   引きこもりが長期化するとともに洋三も亮介も不安にさいなまれるようになってきた。もう同級生は高校へ進学している頃である。  「俺は何をしているのだろうか?勉強も遅れてしまった。どうしよう。このまま何年間こんな生活を続けるのだろうか?」  この不安は父の洋三も同じであった。兄は既に大学生になって東京でキャンパスライフを謳歌している。妹も小学校高学年になり、成績も優秀であった。何か亮介一人が取り残されているようであった。  時代は昭和を終え、平成になっていた。ソ連も崩壊した。しかし亮介は部屋から出てこなかった。  「とにかく医者に診せよう。このままではらちがあかない」 *  「おーい。亮介。医者へ行くぞ。一回診てもらおう。何か病気だったら今ではいい薬もあるようだ」  「わかった」  亮介は意外と簡単にOKした。元々医者に診て欲しかったのだ。勿論、原因はいじめにあったことは否定しがたい。しかし、元々は顔のせいなのだ。この顔を見てみんなは去って行くのだ。だからマスクで顔を隠してきたんだ。  医者へ行くことになって亮介は何年かぶりに風呂へ入り、髭を剃り、髪も洗った。そしてマスクをかけて出かけることになった。 亮介が出かけることに全く不安がなかったのかというとそうではない。どこで中学の同級生と鉢合わせするか分からない。だから夏だというのに長袖とジーンズの格好で出かけた。家の前では父親の洋三が車の冷房をガンガンにきかせて待機していた。  「それじゃ出かけるか」  そう言うと洋三は亮介を助手席に乗せてスズキの軽を発進させた。  「父さん。俺を精神病院に入れるんじゃないやろうな?」  「馬鹿なこと言うな。心療内科へ連れていく。不登校なんかを治すので有名な医者や。お前も病気が治ったら頑張って高校へ行くんや。今時、高校も出てない奴は就職も結婚もないぞ。それからお兄さんのように大学へ行くんや。ええか、お前は他の者よりも遅れているんやから一生懸命勉強して少しでも名の通った大学へ入って就職するんや。そしてお父さんやお母さんを安心させてくれ」  それは洋三のいつもの口癖であった。そこには昔全共闘で闘っていた活動家の片鱗さえも見えなかった。それが亮介には耐えられなかった。  「『俺だって心配なんや。このまま同級生に先を超されるのも、それからこんな生活を送っているのも。でも人は俺の顔を見たら不愉快になるんや。だから中学でみんなも先生もあんなに俺のことをいじめたんや。どうせ社会へ出ても俺は顔のことで虐められるんや』」そう言いたかった。   親子はほとんど口もきかないまま医院の駐車場へ着いた。三階建ての病院で、「生田心療内科医院」と看板がかかっている。二人は二階に登る階段を登って待合室のドアを開けた。小綺麗にしていて、また広々としている。壁にはルノアールの模写が飾ってあった。精神科病棟の恐怖についてネットを見ていた亮介は少し安心した。  受付で洋三が言った。  「お電話させていただいた村沢です。この息子が引きこもって部屋から出ないのです。元々自分の顔が醜いなんていう妄想に取り憑かれていまして、それから学校でいじめを受けたりしてから学校へは行ってません」  「分かりました。お名前を呼ばれましたら診察室にお入り下さい」  「はい。我々二人とも入るのですか?」  「初診ですので、指示は先生からあると思います」  「はい」  そして約一時間程待たされてから名前を呼ばれた。  「村沢さん、本人様とお父さんお入り下さい」  洋三がドアを軽くノックし、二人は恐る恐る診察室へ入った。医者はアームチェアーに背をもたれ、診察室の中だというのにタバコをくゆらせながら話し始めた。  「いつから学校へは行ってないのですか?」  「三年前からです。いじめられて学校が嫌になってそれ以来引きこもってます」  「では、亮介君にお尋ねします。学校へ行きたいですか?」  「はい。みんなもう高校へ行ってます。僕も高校へ行きたいです」  そこへ父親の洋三が口をはさんだ。  「嘘つけ。何が『学校へいきたい』や。あんなに俺や母さんを手こずらせて学校へ行かないと言っていたのに」  「まあまあお父さん、これが亮介君の正直な気持ちやと思います。引きこもりで苦しんでいるのは本人なんですよ」  「そうかも知れませんが、こいつ何かと言うと暴力を振るって家から一歩も出ないんです」  「ほほう。お父さんはそんな息子さんに何かしましたか?」  「はい。制服に無理矢理着替えさせたこともあります。でもこいつ『虐められるから嫌や、怖い』なんて言って、また閉じこもるのです」  「分かりました。亮介君、なぜマスクをしているのですか?」  「みんな僕の顔を見たら不愉快になるんです。だから顔を見られないように外出する時はマスクをしてます。この格好で中学校も行ってました」  「そうですか。まあ、一種の社会不安障害ですなあ。SADと言います。それから顔のことは醜形恐怖と言って特に女性に多い症状です」  「そうなんですか。この子はもう社会へは出られないんでしょうか?」  「いや、そんなことはありません。気長に治していきましょう。薬を処方しますから毎食後必ず飲んで下さい。あ、それからお父さんだけ残って亮介君は待合室で待っていて下さい」  こうして亮介は外へ出された。亮介が外へ出ると医者は洋三に言った。  「お父さん、いいですか。引きこもりになって一番苦しんでいるのは本人なんですよ。まあ、そう言うとお父さんも色々と言いたいことはあるでしょうが---。それから登校刺激はあまり与えないで下さい。長い目で見ていきましょう。それから『高校へ行け』は禁句です。今では高校卒業資格認定試験というのもありますし、フリースクールや通信制の高校もあります。それから他の兄弟との比較もやめて下さい。そうしないと大変なことになるかも分かりません。精神科で言う『事故』が起きる可能性があります」  「え?『事故』って?」  「はっきり言いましょう。自殺ですな」  「そうなんですか。分かりました」  洋三は「自殺」という言葉を聞いて一瞬頭から血の引くような感触があったが、思い直した。「『こんな奴自殺でもしてくれた方がいい』」と思ったのだ。  「では、もう一度亮介君を呼んで下さい」  「はい」   亮介が再び診察室に入った。医者は言った。  「運動なんかもしていないようですから、二週間に一回薬を出します。その時にはここへ来て診察を受けて下さい。それから、お父さんは説得するのにまだまだ時間がかかりそうですね」  こうして診察が終わった。亮介はこの病院へ行く時だけは外に出るようになった。 *  やがて二年が過ぎた。何か家でパーティーを開くらしい。何でも亮介の兄が一流商社に内定したということであった。亮介はその時も出てこなかった。というよりは、自分がますます置いていかれるような気分になって嫌だったのである。その後、この兄はその一流の総合商社に入社が決まり、ニューヨーク勤務になって家を出て行く。  それから五年が過ぎた。  みんな高校を卒業して大学へ行ったり就職したりする年齢になっていた。しかし亮介は出てこなかった。というよりはますます出てくることが怖くなってきた。  不登校になってから九年・十年と時間だけが過ぎていった。同級生はみんなもう就職している年齢だ。大学生活を謳歌して、それから必死で就職活動をしているのだろう。しかし亮介は部屋を出なかった。父や母は亮介に「○○君がどこそこの大学を出てどこそこに就職した」なんて話をするものだから、亮介はますますこの両親が嫌になってきた。  「『焦っているのは俺の方なんだ。なのに親は友人の大学合格や就職の話をしやがって』」そう思っていた。    洋三の口癖は「早く一人前になれ」であった。医者からは「それは禁句ですよ」と言われていたのに直っていなかった。  洋三が育った昭和では高度成長の波に乗って、大学さえ出ていれば就職はいくらでもあった。また、企業も終身雇用で年功序列型賃金が厳として存在し、就職さえできたら「一人前」になれたのだ。  しかし、この頃にはバブルも崩壊して雇用も少なくなり、大学を出ていても就職難で、出世のレールに乗るためには厳しい競争が待ち受けていた。そんな中で亮介は既に中学から取り残されて心を病み、結果として「ひきこもり」ということになり、完全に社会の荒波に乗れなくなってしまったのだ。すなわち、時代が違ったのだ。それを洋三は理解していなかった。 (いよいよ酷いフリースクールに入所だよ。これから面白くなっていくよ)
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