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雪の降る寒い日。
ぼんやりと暗い診察室で医者からの言葉を待つ。
禿げ白髪で眼鏡の医師が恐らく検査結果が書かれているのであろう紙を見ながら難しそうな顔。
暫くして言いにくそうに口を開いた。
「精神疾患だねェ………。」
僕に少しの落胆と、やっぱりそうかという安堵を与える言葉。
世界総人口の約半分が発症するそれ自体には聞き覚えがある。
珍しい事じゃない。
「具体的にはァ………特定の何かを見るとパニック障害のようになって……君の場合は血液だね………まあ呼吸困難だとか、そういう類の不都合が起こる…………君くらいの歳から【なる】のは珍しいが。」
確かにそうだ。
大抵の場合は幼少期に発症して一生付き合っていく覚悟で向かい合う。
僕のように大人の半分の年齢を超えてからの例はあまりない。
今年で10歳になる僕も両親も妹も発症などしないだろうと思っていた。
「なァに、そんなに心配そうな顔をしないでいい、昔は治らない症状が殆だったが、今は殆どの症状は生活に支障をきたさないくらいには抑えられる、今まで通りの生活は続けられるよ。」
医師はそう微笑んで処方箋を出した。
今、目の前に山程散らかっているその薬がそれだ。
僕は吐いていた。
夜、とっぷりと日が暮れた頃。
あの医師に最初に薬を貰ったのがもうとても遠い昔に感じる。
何ヶ月も飲み続けた薬はとっくに使用量の限界を越えて効かなくなった。
薄暗い部屋の中でそれが胃液と共に流れ出る。
僕は視界が回りだして呼吸も浅くなっていた。
薬を吐いてしまったからだ。
朦朧とする意識で不意に僕の部屋のドアが開く音が聞こえる。
「お兄ちゃん………?」
隣の部屋の妹が起きて入ってきたようだ。
もう視界がぼやけて見えないが恐らくそうだ。
「ごめんキボウ………僕はもう………駄目………みたいだ。」
立つ事もままならなくなった僕は意識を失った。
次に目を覚ました時、僕は病院の中だった。
廊下で両親の声がする。
そして僕に薬をくれていた主治医と一緒に病室に入ってくる。
「すまないがエンジュ、お前には施設に入ってもらう。」
父親の冷たい声だった。
どうやら何ヶ月も薬を飲んだのに症状が改善しないどころか悪化していく僕は不用品として家から排除される事になったらしい。
【施設】は精神疾患の末期患者が行く所だ。
重度の精神疾患患者であろうと何不自由なく生活出来る夢のような場所。
そんな謳い文句を信じている人は誰も居ない。
精神疾患者が施設に入れられて戻って来たという話は聞いた事が無いからだ。
一度入ったら死ぬまで、死んでも出てこれないのが【施設】だ。
それは実質上の勘当であり『家族から見捨てられる』事と同じだった。
家族は最後、妹以外は見送りに来てはくれなかった。
その妹すら最後に恨み言を言う為に来たのだと僕に言った。
僕が家業___【お勤め】を継げないせいで自分は金持ちの家に養子に出されて、そこで知らない奴に嫁がされるのだと。
何度も謝って、他にも何か言ったけれど思い出せなかった。
上の空で何も考えられなくて。
家の前に迎えに来た施設からの真っ白の車に載せられる、揺られて、誰も居ない広い座席に座り、白く塞がれた窓を見る。
もっと、何かの感情が湧くかと思って居たけど思いの外、心は落ち着いて空虚で。
これが終わるという事なのかと受け入れてしまっていた。
確かに寂しいし怖いけれど、そんなものは生きてる人間が抱けばいい感情で、もう半分死んだような僕には必要が無くなる___からなのかもしれない。
車が止まる。
ドアが開き一面の雪の上に足跡をつける。
そこから見えた聳え立つ巨大な円柱型の塔。
雪より不自然に白いそれが、完治不能の精神病患者が最後に送られる場所だと告げられた。
名前は【シェムーアルケー】昔の言葉で何とかって意味を説明されたけど、全然頭には入らなかった。
それから白い病衣を渡された。
毎日それと同じものを着るらしい。
同じような色の白装束の職員が施設の中を案内してくれる。
中は広く、エレベーターが丸い部屋の中心にあって、それだけ見れば何処か良いホテルのエントランスのようだ。
ただしそれら何もかもが白い事を除けば。
そこからエレベーターに乗り各階層の説明。
食堂に、遊び場、広場、農園、図書館、その他色々。
そして最後に居住スペースがある階へ。
「ここが、君の部屋だよ。」
そう職員に言われて入ったのは、ベッドだけが置いてある個室だった。
他には何もなく僕にも不満はなかった。
元々ここに来た時点で、死んだ事と同じで、だからこんな扱いすら過ぎたようなものだ。
もしも不満、いや不安があるとすれば、恨み言を残していった妹が少しだけ心配だった、それだけだ。
きっと僕は人も家業も家族も好きではなかった。
それでも罪悪感や嫌悪感を抱いた事はなかったけれど、平気な事とやりたい事は別の物だ。
だからってやりたい事なんて実はこれっぽっちも無かったのだけれど。
「こんな場所だけど、日々を暮らしていくのなら、少しでもやりたい事を見つけなさい。」
僕を部屋まで連れてきた職員に、まるで見透かされているようにそう言われた。
或いはただ単に、それはよくある事が僕の身に起こった、ということなのだろうけど、それだけは何故か頭の中にずっと残っていた。
部屋の窓から外を見る。
雪は勢いを増して吹雪になっていた。
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