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でも全てが懐かしくて、コーヒーの薫りも、カウンターのテーブルも、店内の淡いオレンジの明かりも、全部が懐かしくて。
心の準備も無いくせに帰る選択肢は無くて、いつの間にかお守りがわりになっている懐中時計を握りしめている。
大切な場所だった。
青柳先生と繋がり、この場所があるから全てが始まった。
切ない事も苦しい事も喜びも、全部が詰まった場所。
カウンターのテーブルに手を這わせ、ゆっくりと歩いてみる。
カフェエプロンをしてコーヒーを淹れているあの頃の僕が、カウンターの向こうから見ている気がする。
あの日々を、ただ辛いと言うのは違う。
あの日々を、愛しいと思うのも違う。
でも僕の青春が詰まったこの場所が、あの頃のままなのがホッとする。
将来を考える余裕すらなかった。でも実際に料理の専門学校へ行くと決めた時も、青柳先生から言われた言葉と煉瓦での経験があったからだ。
マスターに会ってお礼と謝罪をしたい、いや、しなきゃいけない。
いつも青柳先生が座っていたカウンターに触れ、また目頭が熱くなる。いつも僕を見守り、バイトの日は必ず一緒にいた。
あんなに愛情をくれたのに、どうして気付かなかった?
どうして、いつも一人だと思ったんだろう?
不思議そうに僕を見る飯塚さんに背を向け、頬を伝い落ちる涙を隠した。色々な事を見逃し、たくさんの人に迷惑をかけ、僕は大人になった。
そして、その写真に目が止まる。
青柳先生が座っていたカウンターの傍に置かれた写真立ての中に、マスターが店先でピースをしている。
お客さんにも無愛想だったマスター、でも写真の中のマスターは僕に向けて見せる満面の笑みだ。その写真立ての前には、コーヒーが置かれていた。
まるでお供えみたいに置かれたコーヒーは、すっかり冷めていて誰かの残りなんかじゃない。
「……マスター?」
「え?知ってるの?」
「……はい、バイトしてて……」
「そうなんだ?今のマスターは悪人だよ」
亡くなった……そう思った瞬間、カウンターに手を付いて自分を支えることしが出来なかった。あのマスターが、僕の大切な場所を営んできた人が、お礼も謝罪もする前に亡くなってしまった。
もっと早くこの場所に来ていれば。
「そのマスター俺知らないんだけど、なかなかな人だったらしいね。今のマスターはさ、生徒に手を出した悪人らしいよ」
「え……?」
「あ!来た!やっとマスター来た!瑠璃ちゃん早く準備して!メリークリスマス!常連さん!」
確かに聞いた話に全身が熱くなる。
もしも今なら、もしもあの頃に戻れるなら、僕は青柳先生に何をしてあげられるんだろう?
手を離す愛をくれた先生に、僕はどんな事が出来るんだろう?
もしも、戻れるなら……僕は……
幾日もの眠れぬ夜を抱いて、僕は先生に何を。
もしも、今なら……
──── カラン
20211218完結
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