残された夏 篠原 有

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 このマンションの不気味さの要因はこの階段だと思う。  渉や慎吾もこの階段は使いたくないと言っていた。虫の死骸や蜘蛛の巣、薄暗い明かりは剥き出しのコンクリートを異様な物に見せている。  だけど全室埋まっているから不思議だ。 「なんで階段なんだよ、篠原」 「疲れました?」 「運動不足だな。筋肉痛になりそうだ」 「これくらいで?」  額にうっすら汗を浮かべて、わざとらしく痛いと顔を歪ませている先生に、僕は自然と微笑んで冗談混じりの返事をする。  先生は僕の返事に嬉しそうで、なんだかその反応に気恥ずかしくなって登ることに集中した。  4階に着くと頻繁に階段を使う僕の息も上がっていた。  最近は外に出ることもなかった為、想像以上に筋力が衰えていたのかもしれない。  青柳先生も僕に続くと渡り廊下から見える満月に目を向け、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。 「うちから見るより月が綺麗に見える」 「そうですか?変わらないと思いますけど」    青柳先生と並んで満月を眺めてみれば、僕には変わらないただの月。   「……篠原」 「は……い」  先生との距離は思いのほか近く、名前を呼ばれて見れば真剣な眼差しに包まれた。 「大変だったな」  なぜだろう?  こんな言葉がとても暖かく感じたのは。  忘れられた存在の僕を忘れていない人がいること。  あまり得意じゃないかった青柳先生が、真剣に考えてくれていたこと。  月明かりの中で見詰めるとその瞳は黒曜石のようで美しく、僕は思わず目を逸らして小さな声で呟く。 「青柳先生……」  ありがとうございます。  これからもよろしくお願いします。  いろんな言葉がある中、先生を小さな声で呼んだだけ。  優しい風に消されてしまいそうな声は独り言みたいなもので、僕の耳にも届かないほどだ。 「なんだ?篠原」  それなのに先生にはちゃんと聞こえていて、なぜか胸の奥が苦しくなる。  母さんにも届かなかった声が、青柳先生には届いたような気がして。  残された夏、僕は青柳先生が担任で良かったと思った。    
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