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残された夏 青柳 哲也
その電話を受けた時の事は未だに覚えている。
残暑が厳しくいつになったら秋になるのかと嘆いていた日、久しぶりに会う親友の金田との約束を一時間後に控えていた時。
知らない番号からの電話に眉を寄せ、無言で出てみれば相手の女性は緊張気味に篠原有の名前を口にする。
クラスでも大人しい篠原の顔が脳裏に浮かんで、渉と慎吾が悪さでもして篠原もそこにいたのかと舌打ちしたくなって。
でも実際は、俺の想像を超える出来事が起きていた。
電話中は篠原の親御さんと何度か話したことがあるのを思い出していた。
派手な印象もなく、細くて色白の綺麗な女性が息子を頼むとお辞儀する姿が浮かんでいたけれど、篠原と似ていて驚いたことを同僚の庄司に話すと職員室でも一度話題になったと聞いて。
あの人が篠原を置いて男といなくなった。
まさかあの人が、そんな印象だった。
「哲也、篠原くん大丈夫だった?」
「大丈夫だよ。悪かったな、静香」
「うぅん、篠原くんも大変なのわかるし」
静香は微笑んで濡れた髪をドライヤーで乾かす。
冷えたビールを飲みながらその後ろ姿をボーッと見つめ、先ほど別れたばかりの篠原を思い出す。
危うい感じがした。
鈍感なはずはないのに、振り返れば感情を何処か遠くに置き忘れた、感情の無い青年が立っていた。
月明かりの下で人形のように大きな瞳を潤ませて笑顔を貼り付け、壊れた玩具のように心の無い言葉が小さな唇から紡ぎ出されて。
めんどくさい事になったな、そう思わなかった訳じゃない。
教師になりたくてなった訳じゃない。
子供が好きかと聞かれたら、そういうこともない。
ただ、安定していたから。コネもあったから。
だから、篠原の事を聞いた時には仕事が一つ増えたとさえ思っていた。
「ねぇ、哲也」
「んー?」
「そろそろ篠原くんのこと、忘れたら?」
赤いドライヤーを化粧台の脇に置くと、静香は細い体をくねらせてベッドに上がってきた。
「私たちの二人のことは篠原くんよりずっと大切よ?」
「静香と俺はうまくいってると思うけど?」
「今は、ね。でも哲也がそんなに仕事の事ばかり考えていたら、私だって篠原くんのお母さんみたいになっちゃうかもよ?」
「なんだ、それ」
静香の唇が俺の唇に軽く重なると、それを合図に篠原の事を綺麗サッパリ忘れた。
形のいい小ぶりな胸を両手で揉んで、荒くなる呼吸に身を任せてみる。
「あ、んっ……青柳先生」
「なんだよいきなり」
「ふふふ、篠原くんがそう呼んでたから」
「バカ言うなよ」
ふざけて悶える静香の話しに、食事後にムキになった篠原の顔を思い出す。
不安を忘れた篠原の顔を思い出す。
『青柳先生……』
その声を、思い出す。
でもそんなものどうでも良くなって、他人事になって、愛する静香の喘ぎに夢中になった。
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