ひとつの夜に 篠原 有

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 蒲田が帰ったのは扉が閉まる音でわかった。  残された僕は蒲田からかけられた言葉も把握出来ないまま、懐中時計を握りしめて目を閉じる。  痛い、痛い、痛い。もう何処が痛いのかもわからないくらい体のあちこちが痛い。  ちっぽけな人生だ、とても退屈で、大切な人も手に入らない下らない人生。肛門に無理やりねじ込まれ、男のくせに犯されて母親のいなくなった家で死にたいと願う。バカみたい。  でも涙は出てこない。    寒さに身を縮めて目が覚めた時には、カーテンの隙間から日差しが床を照らしていた。  何か身に付ける余裕もないほど痛みはまだ激しく、体の節々も痛くて動けない。  人間て痛いってだけじゃ死なないんだ、なんて遠くで思いながら懐中時計を開く。時間はもう朝11時を過ぎていて随分寝ていたんだとまた思う。  バイト先の煉瓦にだけは連絡をしておこうと手を伸ばしてスマホを手にすると、青柳先生から今日も迎えに行くと連絡が入っていた。  嬉しいのに今日は無理だ。こんな状態の自分を見られてしまったら二度と会ってくれなくなるかもしれない。  指先だけで今日は具合が悪いことや風邪をひいてしまって先生に移してしまったら申し訳ないからと断り、その後に煉瓦のマスターに電話して今日は休みたいと伝えた。  一通り終えるとまた目を閉じ、裸のまま小さくなって眠りに落ちた。 「有……ゆっ、有!」  痛みで霞む視界の中、僕は青柳先生の声を聞いた。  夢なのか現実なのかわからなくて、手の中で時を刻み続ける懐中時計を握ってみる。 「有!何があったんだ!」  もしかしたら現実なのかも。  でも今は青柳先生に応えることも出来なくて、体の痛みと猛烈な倦怠感に意識は沈んでいく。  体が暖かくなった、大好きな青柳の匂いを感じる。  今までのことが全部嘘だったみたいだ。
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