ひとつの夜に 篠原 有

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 きっと全ては間違いだった。  僕はたんぽぽの綿毛みたいにふわふわと飛び、自分の現実から遠ざかる。何もかも全部ただの妄想で、冷たい世界を僕はまだ知らないんだ、と。  だから、点滴された左腕が視界に入った時、僕はどうしたらいいのかわからなくなった。  時計の無機質な音がやたらと耳に響いていて、左目がガーゼで覆われていることで蒲田を思い出す。  いつかの天井みたいに知らない白い世界、でも確かに知っている心の痛み。涙なんて出ないのに、どうしようもなく情けなくて悲しくなるのは理解しているからだ。 「有?」  目だけ動かして青柳先生を見る。  疲れた顔の青柳先生は僕の知っている人じゃないみたいで、目の下に出来た隈が影を落として切ない表情を浮かべた。 「痛むか?」 「だい……どぶ」  掠れた声、薄いセロハンを震わせて出てくるみたいな僕の声に先生は眉根に皺を寄せて辛そうに微笑んだ。  どうしてここに?  そんな事聞くほど記憶は曖昧じゃない。でも身体の痛みが無いことで体を起こそうと固いベッドに手をつく。 「まだ寝てないと」 「でも……もう大丈夫」 「痛み止めが効いてるからそう感じるだけだよ」  無理やり起こした体、歪む視界にまた頭は枕に沈む。 「有……叔父さんと叔母さんが今から来るよ」 「え……」      歪む視界と強い吐き気に目を閉じ、それでも僕は今の状況を何とかしようと手を伸ばした。  ────知られちゃいけない  絶対に知られちゃいけない。光弘叔父さんにも泰子叔母さんにも、絶対に知られちゃ困る。 「こんな事されて」  青柳先生の悲痛な声に頷きたくはなるけど、それでもやっぱり困るのだ。あの二人に知られたらどうなるのだろうか。  男なのに男に抱かれ、それだって元を辿れば僕が誘ったからだ。蒲田は悪くない、蒲田は悪くない気がする。  こんな事になったのは僕がちゃんとしていなかったからだ。二人を失望させてしまう。  それとも……あの母親に、この子あり。 「病院が警察を呼んだ。何があったのか言えるか?」 「……!警察?警察まで……何も無いよ、先生!何にもない」 「何にも無い訳がないよ。……相手の見当もついてる」 「待って……待ってよ」  歪む視界の気持ち悪さ、どうにかしなきゃと焦る気持ち。それでも無情に開かれたドアから嫌でも聞こえてくる泰子叔母さんの泣き声。  遠くなる意識の中で青柳先生の手を握り、僕はまたタンポポの綿毛になる。  ふわふわと飛ぶ、どこまでも。
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