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指先で青柳先生の髭に触れてみる。僕のことでいっぱいになって疲れてしまったと考えるのは自信過剰だろうか。
ゆっくりとした時間が流れていて青柳先生も僕も何も話さない、座ったままコートのポケットから懐中時計を取り出すと先生は何は言わずに目を開いた。
大切な先生の時計。
古くて、本当は飾っておくものだといつか言っていた。
時間を確認する為に取り出したことは一度も無い。この懐中時計を握る時は、青柳先生を近くに感じていたい時。
「この時計のお陰で、僕は寂しくない」
見つめ合うと青柳先生は微笑んだ。でもそれは嬉しそうと言うよりは、とても寂しそうに見える。
「有……この家は一人じゃ広すぎないか……」
「え……?」
「もう有の母親は…………帰ってこないと思う」
最初その言葉を聞いた時、何を言っているのか理解できなかった。耳に確かに届いてきたのに脳が拒否するみたいにただの音で。
呆然とする僕を見つめたまま青柳先生は体を起こし、切ない表情を浮かべて困惑する僕の頭を撫でてくる。
そんなに悲しい顔をするのなら言わなくてもいいのに、青柳先生は目を閉じてゆっくり一呼吸すると、僕とまた視線を合わせた時にはいつもの強い眼差しで、その瞳に喉が詰まった。
「篠原……叔父さんの所で暮らした方がいいんじゃないか」
「ッ!……セン、セ?何言ってるの?」
篠原、そう呼ばれることで線を引かれたのがわかった。
叔父さんの所で暮らしなさい、そう言われる事で自分の立ち位置がわかった。
頭の中が全てを拒否して、胸の奥が恐怖で固くなっていく。すっかり暖まっていたはずの室内で体は寒さに震え、目の前に広がる未来に恐れ慄く。
「邪魔なのは……俺なんだ」
「邪魔って……何を言ってるのか分からないよ」
「俺が全て悪かったんだ」
「何を言ってるの!先生!」
こんな事、自分に起きるはずがない。
絶対に起きるはずがない。
「蒲田との事は謝ります!先生にちゃんと言えば良かったと後悔している。でももう二度と会わない、絶対に会わないから……だから」
「篠原の未来の話をしよう」
「未来なんていらない、僕には無くたっていいんだ。青柳先生がいれば……哲也さんがいれば」
遠くへ行ってしまうつもりだ、そう分かった。だからパニックで、何とか目の前の先生を繋ぎ止める為に服を掴んで。
どうしたらいい?
どうしたらいい?
どう、したら?
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