残された夏 青柳 哲也

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   人違いかもしれないとも思った。でも横顔を見た時には自然と走り出していた。  脳裏には篠原の悲しい顔が浮かんでいて、目の前に迫るパーカーとジーンズに包まれた華奢な体を乱暴に振り向かせる。 「キャッ!」    そこには見知らぬ女の怯えた顔。  記憶の中にいる篠原の母親とは似ている部分も無い。 「…、すみません」  呆然と立ちすくみ、肌に伝う汗が心を冷ましていく。  なぜ走り出したのだろうか?  何処をどう見て見知らぬ女が篠原の母親だと思ったのか?    通り過ぎていく人の群れはまるで犯罪者でも見るような目つきで俺を見て、篠原の母親だと思った女は怯えながら小走りで街に消えた。  昔から慎重なタイプだったにもかかわらず、突然こんな行動をとった自分に一番驚いたのは俺自身だ。  思っている以上に酔っているのかもしれない、家に帰ろうと踵を返して歩き始める。  胸ポケット入れた懐中時計を取り出し、時計を見れば今日はタクシーで帰るべきと判断する。  さすがに一時を回れば静香も怒っていると分かったが、電話をして怒る彼女を対応する気分になれなかった。  歩きながら来た道を戻り、金田と立ち話していた場所にまた戻ってきた。  何かが違うんだ。  いつもの俺とは違うものが酒の力を借りて出ている気がする。   「お、珍しい顔だなぁ?」  その時だ。  その声は懐かしい感じもしたけど、自分に向けられたものだと最初は気付かなかった。  思考の渦からなかなか出られずにいると、爪が綺麗に整えられた清潔感のある手が俺の胸ポケットに入ってくる。 「なっ!」 あまりに突然で睨みつけながら相手を見れば、相手の手に包まれた俺の懐中時計は男性の方に向けられていた。 「こんな時間まで歩き回れる年齢になったんだな、哲也」  時計を確認してそう言ってきたのは懐かしい顔に少しだけ皺を増やして、白髪の品のいい70代の男。 「…!マスター!」  大学の四年間働かせてもらった喫茶店のマスターだった。 「よ、哲也。なんだ?随分と難しい顔してたみたいだけど」 「お久しぶりです。……ちょっと色々あって」 「ふーん、ちょっと色々ね」  マスターはそれだけ言うと笑いながら歩き始める。  これはついて来いみたいなもので、おとなしく肩を並べてゆっくり歩いた。  
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