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「あ……」
思わず声が漏れてしまったのは、慎吾の宿題を考えながら歩いた結果、懐かしいオフィス街の中にある懐かしい店の前に立っていたからだ。
煉瓦は相変わらずまだ淡い明かりが点いていて、クリスマスイヴの夜らしく入り口の傍にはツリーが飾られている。
「……マスター」
たくさんお世話になったのに何も言わずにいなくなってしまった。話したのは電話でが最後で、マスターは僕のことをどう思ったのだろう。それにあの記事だってマスターの目に入ったはずだ。
下手したら僕の所為で週刊誌の記者も来たかもしれない。
会う勇気はやっぱり無くて、店に一礼して背を向けると、背後からカランと懐かしいドアベルの音がする。
「お客さん?」
ドキッとした。
でもその声はまだ若く、マスターの声じゃない。
振り向いて顔を確認すると、スーツ姿の見知らぬ男性がドアの隙間から僕を見ている。
「お客さんだよね?常連さん?」
「いえ、まー、あの」
「早く入りなよ、外は寒いから」
僕の返事を待たずにスーツ姿の男性はドアを大きく開け、狭い店内がこの場所からも見え、カウンターに座る女性が身震いしたのも見えた。
いつまでも開けていたら店内はすぐに寒くなるのを経験していたから、促されるまま10年振りに足を踏み入れる。
その瞬間、懐かしさに胸の奥がギュッと縮むのを感じる。
変わってない、それが余計に胸にくる。
「助かったー、瑠璃ちゃん、これで僕たち自由だぁ!」
瑠璃ちゃんと呼ばれる女性は男に視線を移すことなく僕を見ていて、ふさふさなまつ毛と大きな目が印象的な子だ。
「常連さん?私も常連なんだけど、貴方のこと知らないわ」
「まー、常連、でしょうか……」
瑠璃さんから圧を感じる。
「ヤッタ!ね?瑠璃ちゃん、常連さんだって。あのマスター、常連だと店番させて買い出し行くからさー」
「あー、ですよね」
相変わらずなんだ、僕が来てからはそうじゃなかったけど、一人で切り盛りすると仕方ないとは思う。変わっていないマスターに僕は声を出して笑い、淡いオレンジの店内を見回す。
「マスターが来るまでいようよ、飯塚さん」
「何言ってるんだよ瑠璃ちゃん、せっかくのクリスマスイヴなんだよ!」
「だって……」
「店番は常連の勤め、君に任せていいよね!」
飯塚さんという人は必死で瑠璃さんを連れ出そうとしている。でも残念ながら、マスターと会う心の準備なんて僕には無い。
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