残された夏 青柳 哲也

9/11
前へ
/191ページ
次へ
     最初は時給が安いから少し働いたら辞めようと思った。  家庭教師の方がずっと金も良かったし、何かと融通が利くとも聞いていたし、そっちに行くつもりだったのだが、喫茶店で働いてみるとすっかりコーヒーにはまってしまったのだ。  マスターもいい人で、朝方まで話し込んだ事もある。  卒業して教職に就いてからも暫くはコーヒーを飲みに通っていたが、部活の顧問になってからはそんな時間も無くなってしまった。  角を曲がるとオフィス街で、そこに喫茶店 煉瓦 マスターの店がある。  懐かしさで胸の奥がチクチクと痛い。巨大なビルの中にひっそりと佇む喫茶店は、店の名前にもなった煉瓦造りのこじんまりとした店だ。そして昔と変わらずオレンジの小さな灯りでお客を待っていた。 「ゆっくりしていったらいい」  マスターがドアを開けるとカランコロンと懐かしいドアベルの音。カウンターには客らしき男がドアベルの音と同時にこちらを見ている。 「マスター、お客さんナンパしてきたのかい?俺はもう帰るよ」 「はいよ。店番ごくろうさん」  どうやら男に店番を頼んでいたらしく、スーツ姿の男性は俺に会釈するとお金を払って帰って行った。 「相変わらず人使いが荒いですね」 「なーに言ってんだ。こっちは老人なんだぞ。 老人には優しくしなきゃなんないだろ?テレビでも言ってんじゃないか。明日明日死ぬんだから」 「大丈夫、マスターは当分死なないよ」 「いんや、俺みたいなのがコロッと逝っちまうんだよ。ある日突然コロッとな」  黙っていれば品のいい老人に見えるのにと何度思ったことか。だが、こういうところがあるからマスターは面白い。  マスターは買い物袋から牛乳を取り出し冷蔵庫にしまうと、一人分の豆を挽いてサイフォンのアルコールランプに火を点ける。  最初の香りがいいサイフォンは俺のお気に入りだった。  
/191ページ

最初のコメントを投稿しよう!

519人が本棚に入れています
本棚に追加