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最初は時給が安いから少し働いたら辞めようと思った。
家庭教師の方がずっと金も良かったし、何かと融通が利くとも聞いていたし、そっちに行くつもりだったのだが、喫茶店で働いてみるとすっかりコーヒーにはまってしまったのだ。
マスターもいい人で、朝方まで話し込んだ事もある。
卒業して教職に就いてからも暫くはコーヒーを飲みに通っていたが、部活の顧問になってからはそんな時間も無くなってしまった。
角を曲がるとオフィス街で、そこに喫茶店 煉瓦 マスターの店がある。
懐かしさで胸の奥がチクチクと痛い。巨大なビルの中にひっそりと佇む喫茶店は、店の名前にもなった煉瓦造りのこじんまりとした店だ。そして昔と変わらずオレンジの小さな灯りでお客を待っていた。
「ゆっくりしていったらいい」
マスターがドアを開けるとカランコロンと懐かしいドアベルの音。カウンターには客らしき男がドアベルの音と同時にこちらを見ている。
「マスター、お客さんナンパしてきたのかい?俺はもう帰るよ」
「はいよ。店番ごくろうさん」
どうやら男に店番を頼んでいたらしく、スーツ姿の男性は俺に会釈するとお金を払って帰って行った。
「相変わらず人使いが荒いですね」
「なーに言ってんだ。こっちは老人なんだぞ。 老人には優しくしなきゃなんないだろ?テレビでも言ってんじゃないか。明日明日死ぬんだから」
「大丈夫、マスターは当分死なないよ」
「いんや、俺みたいなのがコロッと逝っちまうんだよ。ある日突然コロッとな」
黙っていれば品のいい老人に見えるのにと何度思ったことか。だが、こういうところがあるからマスターは面白い。
マスターは買い物袋から牛乳を取り出し冷蔵庫にしまうと、一人分の豆を挽いてサイフォンのアルコールランプに火を点ける。
最初の香りがいいサイフォンは俺のお気に入りだった。
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