残された夏 青柳 哲也

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     淡いオレンジ色の優しい明かりに包まれ、目の前に出されたコーヒーの香りにギスギスしていた神経は癒されていく。  一口飲めばいくら自分ではこだわっていると思っていたコーヒーでも、まったく別ものを飲んでいるように香りが深く豊かだ。  そしてどれほど疲れていたのかも分かって、強張っていた体もマスターの淹れたコーヒーでゆっくりと解れていくのを感じた。 「仕事はどうだ?哲也のことだからうまくやってるか」 「そうでもないんです」 「そうか、まぁ色々あるよな。だから俺のこの商売も成り立ってるんだから」 「癒しの空間ですね」 「そうそう。コンクリートジャングルのオアシスだぞ?こんな時間までコーヒー飲みに来る奴がたまにいるから、俺は寝る時間がないんだよ」 「マスターも大変ですね」 「こう見えてな」  あっけらかんとそう言うマスターは昔とまったく変わらない。  この人は昔から懐が深くて恐ろしくなるほどだ。  懐かしさと親しみ、マスターの懐の深さに自然と仕事の愚痴が出て、そして、篠原の母親の話が出てくる。 「はー、そんな親本当に世の中にいるんだな」 「はい。……同僚は普通にしろと言うんですが、俺の普通って……なんて言うか、普通ってなんだろう」 「哲也の普通はその子の前じゃ通用しなくなっちまったってことかい?」  マスターの何気ないその一言は今の俺には痛く、そして図星だった。  篠原に俺の今まで通りはもう通用しない。  無関心のままではいられない状況になってしまったからだ。だがしかし、真剣に考えてやろうと思っても何を考えればいいのか、そしてどんな事をしてあげたらいいのか皆目見当もつかない。 「……壊れたのは分かる。でも、本人は自覚が無いように見える。君は壊れていると言うべきなのか、それとも自然の流れで気付くのを待つべきなのか、はたまた壊れた箇所を治してあげたらいいのか……まぁ最後のは無理なんですけど」 「難しいな。相手は人間だもんな」 「はい……なんて言うか、かわいそうなんですけどね」 「かわいそうだけど、どうしたらいいかわからないからストレスだってか?」  ギクリとしてマスターを見れば、そこにはいたずらっ子のような老人がサンタクロースのマグでコーヒーを飲む。  季節外れのマグをテーブルに置くと唇を噛んで、俺のことをじっと見つめてきた。
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