残された夏 篠原 有

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     挨拶もそこそこに助手席のドアを開けてもらい、自然と体を滑り込ませれば覚悟も決まった。  青柳先生のプライベートな空間に自分がこうして座っているのがとても不思議で、そしてこの状況を把握しきれていない僕がいる。  苦手な教師と二人で食事をする億劫さもあって自然と無口になってしまう。いったい何を話せばいいのか。  母さんのことを話せばいいのか。だけど、僕は何にもわからない。それに母さんの事なら、先生が知っている事と僕が知っている事に差は無いと思う。  密室でお互いに無言になると自然と目線は窓の外に向けられる。  連なるテールランプを横目に慣れない香りに包まれ、仕事帰りのおじさんやこれから出勤するだろう若い女性の姿、帰宅途中の高校生の中には小学校が一緒だった女子の姿もある。やけに大人っぽいその姿に懐かしさよりも、遠い記憶の中にいた少女と一瞬でも同じ時間を過ごしたことが本当の出来事だったのか不思議に思えてくる。 「何を見てるんだ?」  青柳先生に視線を向け、同級生がいた事と今感じたどうでもいいような事も話してみる。 「俺なんて小学校の同級生とすれ違っても気付かないかもな。篠原はどんな子供だったんだ?」 「小学生の頃は毎日料理の勉強ばかりしてたんです」 「料理の勉強?」 「はい。でも勉強って言っても図書館で料理の本を借りてきて、それをメモって……」  母子家庭で育った僕は、父さんの代わりになろうと必死だった時期がある。  家事が苦手な母さんが少しでも楽になるように、そして父さんから教わったいろんな野菜の切り方が幼いながらも自慢だったから。 「たくさん作っても結局は父さんがよく作ったものを母さんは好きだったから、本当はあんなに時間割いてまで図書館に行く必要も無かったのかもしれないですね」 「人生に必要ない勉強なんてないよ、篠原」 「そうだと嬉しいです」  悲しい横顔を見て、話題を変えようとしても話題が見つからない。 学校のこと、渉のこと、慎吾のこと、同じクラスのみんなから貰ったメールのこと、本当はたくさんあったはずなのに。   「そうだ、篠原。今日の食事なんだけど、俺の家にと思っててね」 「え?青柳先生の家ですか?」 「そ。頼むからクラスの奴らには言うなよ。めんどくさくなるから」  空気を変えてきた先生からの爆弾発言に思考は奪われ、横顔を見たまま返事するのも忘れてしまった。   「大丈夫。俺が飯を作るわけじゃない」  そんな事を心配していた訳ではないのだが、先生のその言葉にまた困ってしまう。 「ご飯作ってくれるの、青柳先生のお母さんですか?」 「いや ……俺のパートナー」  早く帰りたい。  どっと出てきた疲れはどうやら顔にも出ていたらしく、青柳先生はそんな僕を見て可笑しそうに笑った。    
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