残された夏 篠原 有

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   元々人見知りするタイプなのでただでさえ緊張していると言うのに、青柳先生の恋人と一緒に食事をするなんて想像出来ない。  先生の話では食事がそろそろ出来ると連絡があったらしく、後は僕たちが着けばいいだけだと教えてくれた。 「そんなに緊張しなくていいよ。優しい女だから」 「……はい」 「実はさ、篠原を食事に誘おうって言ったのも静香なんだ。あ、静香って俺のパートナーの名前な」 「そうなんですか」 「急で悪かったな」 「いいえ、大丈夫です」  顔も知らない女性が僕のことを知り、気の毒だから食事にでも誘おうと提案してくれた。  ありがとうございます。その言葉は素直じゃない僕の口から出てこなかった。  青柳先生の家は高校から近く、比較的新しいマンションだった。  駐車場から小さなエレベーターに乗って五階を選び、二人を乗せて小さな箱は上がっていく。  先生の話では静香さんの両親が気に入って購入したものらしく、ちょうど家を探している時に両親に勧められて、二人でこのマンションに越すと決めた時に先生は結婚の覚悟が出来たらしい。  そんな話を青柳先生が僕に話すなんて少し前なら考えられない事で、そして先生が結婚の覚悟なんて面白おかしく話す姿も僕の知る青柳哲也じゃなかった。  静香さんは結婚は来年の春と決めてしまったらしく、先生はただ「はい」と返事をするだけだと笑った。  エレベーターを降りて自分の家とは違う明るい廊下を歩く。青柳先生は鍵を取り出しながら後ろについてくる僕に振り向く。 「此処だよ」  言いながら立ち止まり鍵を挿すと、先生には聞こえないように小さなため息を吐く。    どんな表情を作るといい?  笑顔か、真顔か、それとも、悲しい顔か。  答えが出ないままゆっくりドアが開くと、カレーの香りと共に薄いピンクの長い暖簾から女性がひょっこり顔を出す。  健康的な肌に優しい目。細い体が暖簾から完全に出ると視線を合わせたまま近付いてきた。 「篠原くん、いらっしゃい!汚い所だけど遠慮なく上がってね」 「……お邪魔します」 「思う存分お邪魔してくれ」  背後の声に振り向き、いつまでも玄関に突っ立っていたら先生に悪いと靴を脱ぐ。  知らない空間、知らない人たち。  カレーと他人の家の匂い。 「篠原くん、お腹空いたでしょ?カレー作ったからたくさん食べて」  微笑んで頷く。  静香さんが暖簾の向こう側に慌ただしくいなくなる。 「篠原は喋りに来たんじゃない。食いに来たんだから、何にも考えないで飯だけ食え」 「……はい」     背中を押されて部屋に入ると、キッチンからカレーライスを運ぶ静香さんが微笑む。  テーブルにはサラダやスープ、小さなピザも並んでいた。            
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