残された夏 篠原 有

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 空には大きな満月が浮かんで、暑さは嘘のように影を潜め冷たい風が時おり頰を撫でていく。  心地よくも感じる風に深呼吸ひとつ、前を歩く青柳先生に失礼を謝ろうと口を開いたら、先生は分かっていたように振り向いた。 「篠原の家ってうちより広いか?」 「え?……どうでしょう。……リビングは少し広いかも。……でも、綺麗ではないですよ」 「そっか、やっぱり外観から見ても広そうだもんな」  どうでもいいような質問をしてまた前を向いてしまう。話が違うから謝るのもおかしいかとそのままになった。  大人なんだ。  青柳先生は、包み込む力が僕の想像するものとは違っているんだ。  得意じゃない教師と、そう思っていたけど。  背の高い先生の肩幅は大人の男らしくがっちりとしていて、数学教師とは思えない後ろ姿に女子にも男子にも人気があるのも理解出来た。  でも青柳先生の魅力は端正な容姿だけではなくて、こんな風に包み込むような優しさなのかもしれない。    無駄に話さなくていい、でも一人じゃないこの状況が、たまらなくありがたかった。  少し歩幅を大きくしてゆっくり歩いている先生と肩を並べ、久しぶりに見る高校の前を通り過ぎていく。  随分と来ていない学校は暗い中では巨大なコンクリの塊にも見え、光弘叔父さんが言ったようにこの塊に通い続けていいものなのか、それとも辞めるべきなのか、僕の中でまだ答えは出ていない。 「そう言えば、篠原の叔父さんから電話をもらったよ」 「え?」 「高校を辞めると有が言ったらすぐに連絡くれと言われた。絶対に卒業してもらいたいそうだよ。優しい叔父さんだな」  青柳先生は僕の考えていることがわかっているみたいだ。  街灯の僅かな明かりだけを頼りに先生の表情を窺えば、端正な横顔は満月を見上げている。 「そうだ、いつから来る?」  その横顔は不意に僕を見下ろし、驚いてドキッとした。  形のいい切れ長の目と整った鼻梁、少し前に怖いと思っていた顔は状況が変わった今は少し違う。 「……来週から行きます」 「そうか。待ってるよ」  だからだろうか?  あんなに迷っていたのに、生活費を稼いで高校も行こうと思えたのは。  光弘叔父さんが青柳先生に連絡をしてくれていたことも素直にありがたく、出来るところまでやってみようと思えた。  古いマンションが漸く見え、青柳先生のマンションと違い、薄暗く少し不気味な雰囲気に僕はホッとする。  古いと言っても家賃は安くないが、学校も近いし母さんの仕事場でもあるスーパーも歩いて行ける。母さんも古いけど好きだと言っていた家だから、こんな状況でも引っ越すことは考えていない。 「ありがとうございました。そして……すみませんでした」 「だから、篠原は何にも謝る必要はない。それに家の前まで送る」  先生が言う家の前は玄関前らしく、言われるがまま薄暗い階段を2人で4階まで登る。  
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