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「ここからいなくなれ!」
裂帛の声を響かせて、血に塗れた床を蹴った。眼前に聳えるは諸悪の根源、全ての元凶、邪悪の権化、そして、俺の怨敵……魔族の王たる存在。
魔王が力を振り絞るようにして、痙攣する右手をゆっくりと掲げた。世界が奇妙に歪み、森羅万象の動作がまるっきりスローペースになったような錯覚を覚える。
だが、この次は分かる。
瞬間、目の前に現れた火球を、正面からぶった斬った。視界が爆煙に包まれ、遅れて、悲鳴みたいな轟音が城中に反響する。
兎に角こちらのテンポを崩すのが好きなようだ。一瞬、意識がどこかへ飛んだ気分……渋滞してるんだから、自分の都合で勝手に止めるなよ。
煙が晴れて、再び魔王の姿が現れる。驚いたような、笑っているような、形容し難い表情が拝めた。自分でも決めあぐねているようで、口が早口言葉みたいに機敏に動いている。
それが少し気に障って、刃こぼれした長刀を、疾走する勢いのままにぶん投げた。勿論、それは魔王の周囲に張られた結界に弾かれ、足元に情けなく落ちる。
この魔王城で調達した剣だ。最初から頼れるとは思っていないし、もう用無しさ。
本命の得物を腰の鞘から抜き放ち、一振り。蒼白い魔刃が形成され、獲物へ飛びかかるように空間を走る。果たして、凶刃は結界と拮抗し、唸り声を上げながら、その場に留まるだけだった。
もう一撃くれてやろうかと思ったが、敢えて止めた。魔王との距離を残したまま、床にヒビを入れつつ、高く飛び上がる。落下地点を奴の頭上へ定め、体を僅かに傾けて修正。
魔王がこちらを見据え、黒く染まった魔力に、弓の形を与えた。もう満面の笑みを隠そうともせず、彼はそれを構える。
否、違うな、構える筈だった。
雷が結界を貫き、二つの光が彼の身体を蹂躙する。蒼の刃が片腕を切り落とし、霧散した魔力と噴出した血が、俺の頬を掠める。被食者は変わらぬ笑顔のまま、声ならぬ声を上げていた。
そんな哀れな魔王なんぞから目を離し、ほんの一瞬、苦楽を共にしてきた魔術師の方を見た。
彼女はいつものように、ずっとそうしてきたように、小さく頷いて、そして、笑った。
そう、いつもと同じだ。
刃金を魔王の頭頂部に沿えて、重力に身を任せながら一太刀。足から伝わってくる衝撃が心地良い。
その勢いのまま刃を返して二の太刀。魔王は笑っている。尚も笑っている。
もう知るか! 仕上げに愛刀爆破!
そう念じた途端、爆風が俺自身をも吹き飛ばし、眼下にさっきのヒビが見えた。
痛みのあまりに発した声は、まるで聞き取れなかった……多分、絶叫してたんだけど。
地面と熱烈なキスをしたり、尻を引っ叩かれたりと、そういう類のアレみたいな体験の末、俺は雑巾みたいに床を滑って、そのまま突っ伏す。
面を上げ、吸い込んだ色んなモノを血と一緒に吐き出すも、もう一度頭を垂れてしまった。精魂尽き果てて、もう溜息を吐ける気すらしない。あ、でも、今のは溜息かもしれない。
未だにキンキン言ってる聴覚で、魔術師が駆け寄ってくる音を、確かに捉えた。微かに表情が緩み、それが、自分でも意外だった。
彼女の肩を借りて立ち上がると、真っ先に魔王を探した。どこにもいない。気配もない。この際、いても良い。ひたすら、結果が知りたかった。
だが、その〈結果〉は、奇異な形で提示された。
激闘の中でビクともしなかった魔王城がガタガタ軋み、巨像や飾り鎧が尽く崩れ落ちた。あちこちから、ドラゴンの足音みたいな不快音が続々と届いてくる。
持ち主のいない城は要らない。それだけのことだ。だから……魔王はいなくなった。それは真実だ。それだけは、断言出来る。
半ば呆然としていると、知らない間に、魔術師が小さな身体に俺を背負っていた。自分も体力を消耗しているだろうに、やってくれるじゃないか……健気、だよな。ホントさ。
いいよ、と伝えようとしたのに、声が出ない。ヒューヒューと、間抜けな音を奏でるだけだ。やり過ぎたかな、と頭の中で冷静な自分が告げる。
馬鹿、ああでもしないと、安心出来ないだろ。だって……
その次に思考を繋げることすら出来ず、景色が滲み始めた。これは死の予兆か、あるいは、否、止めよう。考えたくない。死だ。お迎えだ。魔王の呼び声だ。
そう信じて、静かに、眩しくて堪らないように、目を、閉じた。
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