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小丘に建てられた宿から離れ、穏やかで曲がりくねった坂道を下りながら、遥か向こう、草原の先に、ぼやけた魔王城を見た。他の山々にも、人里にも隔絶され、霧なんか被って居心地悪そうにしている彼、とでも形容した方が適切だろう。二十回ほど崩したことで、そう感じるようになった。
と、ぼんやりしている内に、前を進む魔術師との距離が伸びていたので、小走りにならざるをえなかった。
人の営みの方へ近づくにつれ、草木が追いやられ、木々が人工的な臭いを帯びるようになった。ひょろっちぃ木がぽつぽつと伸びているのみ。足音は徐々に落ち着き、砂利を踏む音も、気付けばどこかに消えていた。
姿が曖昧になってきた宿を見上げ、ありゃ立地が悪い、と訳知り顔で呟く。そういえば、不人気で寂れた宿屋だと、脳が勝手に認識していた。この際、はっきり認めてしまおう。なんだか惨めで厭だった。
ところ変わって町中では、宿屋の静寂はどこへやら、大通りを人々が行き交っていた。1人1人の声音が重なり合い、活気を成している。
あちらこちらで老若男女が集まって、つい昨日の祭りのことを話していた。中には、朝っぱらから顔を火照らせ、千鳥足の者もいる。それが肩を組んで3、4人で歩いていると、もうお手上げだ。
道の両脇には飲食店やら薬屋やらが並び、人々の足を止めようと、店員らしき人々が熱心に声を出していた。食物は兎も角、薬なんか進んで買いたくないんだが、こういうご時勢だからな。
つい最近まで魔物に支配されていたというのに、あるいは、だからだろうか。普段の様子は知らないが、どうも元気過ぎる。未だに慣れない。
「騒がしいですよね、ここら辺は」
人々を避けて、道の端っこに逃げ出しつつ、魔術師が圧倒されたように嘆いた。心なしか、猫背になっているように見える。やはり、活気に満ちて人で溢れる場所は苦手らしい。俺も苦手だ。
だから、観光っていうのは尚更、驚いたというか、それで同行を願うのも仕方ないというか、なんというか。
「ここは離れた方がいいかもな。どうする?」
「えぇ、その……勇者様がよろしければ、なんですけど」
「勿論どうぞ。非常にどうぞ」
俺の意見なんか甚だどうでもいいのだが、こうでも言わないと彼女は迷ってしまう。俺の意見は9割聞くのに、この癖を治すことは終ぞ無理だった。
俺が勇者と言われているからって、気にする必要ないのに。人間程度、理不尽に死ぬんだから、好きなようにやらなきゃ後悔しかねない。それがどんなものであれ、心残りは最悪だ。
……と言っても駄目だったっけ。ま、見本を見せられないからな、俺は。心残り心残り心残り心残り。
はてさて、薄暗い路地に入り、喧騒に背を向けて無言で歩いていく。こうなると、あと20分くらいは歩き通しだ。多分、大通りを貫いて進めば、それらしいところにも早く着くのだろう。だが、考えたって仕方がない。無意味だ。
大体よぉ、アレだ。そんなに人と密着して暑苦しくないのか? アレだぞ、あの、アレだ。ド田舎の川沿いとかのがよっぽど涼しいぞバーーーーッッッカ!
気にしてねぇし! 俺、気にしてねぇし!
と心中で意地を張る一方で、人混みを歩くのも、悪いことばかりじゃないらしい、とは思う。何も、近道だからスピーディなのではない。顔も分からぬ他人が一杯にいるからこそ、スピーディなのだ。
「あ、シニストラさんじゃないですか!」
魔術師が角を曲がった途端、そんな大声が聞こえた。急いで後を追い、彼女の肩越しに様子を窺うと、細目で気の良さそうな男性と、微笑を湛えた女性がいた。
ほらね、やっぱり。
「あ、ら、ら、勇者様も! こりゃ運がいいなぁ! いやぁ、運がいい。先日はどうも、ホント。この町もすっかり平和になって、ねぇ。あなた方のおかげですよ。ほら、お前も!」
別に言わなくったってするだろうに、男性が傍らの女性に挨拶を促しつつ、満更お世辞でもないような褒め言葉をつらつら述べている。殆どうるさいくらいだった。
そんな彼と対照的に、女性は背筋を伸ばし、前で手を合わせて、軽くお辞儀をした。品のある人だ。この2人が夫婦なのか、あるいは兄妹なのか、単に知人なのか、推察しかねる。
個人的には兄妹だな。できの悪い兄には、それはそれは素晴らしい妹がいる傾向が……おっと、できの悪い、だなんて。謙遜を悪口にしてどうする。
「そう言って下さると、これまでの努力も報われるようです。人々に認められねば、正義の味方なんて名乗れませんしね」
なんてふざけたことを言いながら前に進み出て、魔術師の表情を伺う。驚いたのと安心したのとで表情筋が過剰に働いているのか、戦闘終了直後みたいに、目を垂らして、気の抜けた顔をしていた。それとなく、寝顔に似ている。
「正義の味方! へぇ、それは心強い。えぇ、もう、本当に相応しい称号だと思いますよ。勇者にして、正義の味方! 見よ、彼こそが人類の希望! なんて大層なことを口走るのもね、ひとえに、あなた方の雄姿をきっかりバッチリ見せ付けられたのがね、原因なんです。あぁ、もう! まざまざと浮かぶようですよ! あなた方が正義の名の下に、魔王の野望を玉砕するその姿! 魔王なんて、もう敵じゃあ……」
で、結局、立ち話は「誰かが我々を呼ぶ声がします。失敬」と中断して走り去るまで続いた。
3つの十字路を走り過ぎて、ようやく一息つけた。あの男性が虚偽の武勇伝を追加し、吹いて回るかもしれないが、その点は諦めるしかない。それに、どうせ今回だって失敗するんだ。構いやしない。
「時間、かなり喰ったな。あそこまで延びるとは」
魔術師は息を切らしたようで、肩を上げ下げしながら、細かくかぶりを振った。
「いいんです……1人で相手させて、ごめんなさい」
「謝るところじゃないだろ。俺はその為に来てるんだ」
少なくとも、今の俺はそう思っている。
どうも、人気がなく、すれ違う人間の顔をはっきり見えるような場所だと、陽気な町民に捕まりがちだ。魔術師はそんな輩を捌くのが不得手だから、俺が担うことになる。それが役目だ。
まぁ、舞台女優のプライベートにくっついてくる、マネージャーみたいなものか。それにしては尊大だけど。
「元の道から離れちゃったけど、大丈夫か? 俺は最初から分からないんだけど……」
「多分、大丈夫です。このまま西に進めば、落ち着いた通りに出る筈です。地図で……あ、その、看板、があったんです、さっき。その地図です」
「それはいいな。やっぱり、任せて正解だった」
地図。そういうことだったのか。だからどうやっても、同じ場所に出るんだ。俺はもう20周はしたのに、その看板の存在にすら気がつかなかった。
やはり、俺が指揮をとると、こうはいか……ないこともないな。「落ち着いた通り」も、毎回たどり着くから、どこら辺にあるか分かるようになっている。
「じゃあ、後も頼む」
そう言って後ろに回ると、魔術師が立ち止まって、じっと俺を見た。
「え、どうした?」
ジョークの1つでも接合しようかと思ったが、彼女が目を落としたのを見て、止めた。
視線を追うと、なんてことはない、舗装された道が、俺と彼女の間にあるだけだった。ますます分からなくなってくる。
「なんか……遠い」
「へ?」
そんな間抜けな声を出し、慌てて面を上げた。ところが、何故か魔術師まで目を丸くして、あ、と言ったまま固まっている。
「……い、いえ、その、そんな、えっと、え?」
「はぁ、遠いな、確かに。対応に遅れが生じる。この布陣の欠点だな」
「その……はい。そういうことです」
魔術師が鞄の持ち手を、きゅっと、力を入れて握った。よく気付いたもんだと、自分を褒めてやりたい。
「近い方が、いいのか?」
「へ?」
今度は、彼女が間抜けな声を出した。軽蔑の色は含んでおらず、単に、驚いたようだった、と思いたいところだ。これが間違っていたら、恥ずかしいなんて話ではない。
「でも、違うか」
「えっ、あ、はい、違い……私、なんて言ってました?」
酷く動揺した様子で、目を豪快に泳がせながら、そんなことを言う。戸惑っているのはこっちも同じだが、彼女は俺より、深刻に見える。言葉が一々つっかえるのは元々として、こうも崩れるのは久々だ。
「なんか遠いって。で、近い方がいいかって尋ねたら、驚いて……まぁ、そんな」
「ち、近い方がいいです!」
今を逃しても永遠に話せない訳じゃあるまいに、非常に早口で彼女は叫んだ。音が辺りに反響した後、周囲が静まり返る。そして、彼女はそれきり黙ってしまった。
「あ、うん」
頭をかこうかかくまいか迷って、結局、何もせず、俺は彼女の背後に回った。甘い匂いが、今にも鼻を刺激しそうだ。なるべく嗅覚が鈍感になることを、祈る。
洞窟を探索するにしても、草原を横断するにしても、警戒を強める時にこんな体勢はとらなかった。少し、居心地が悪い。というか、緊張する。
「言い辛いよな、こんなの。気付ければ良かったんだけど」
もしかしたら、ということは考えない。もしかしたら、彼女はずっと、今まで、何周も、このことを言えずにいたんじゃないか、なんてことは考えない。まるで考えない。
ここで遭遇するのが人ではなく魔物だとしたら、気付いたかもしれないんだけど……人を恐れる心は、もうあんまり、なぁ。
「ごめんなさい」
そっと告白するように、振り返らぬまま、魔術師が言った。
「これも私の勝手の1つで、だから、いいんです。」
「いや、別に……」
とだけ言って、俺も自然と、頭を垂らしてしまった。どうすれば彼女を謝らせずに済むのか、それが今1番、ループを脱出する方法なんかよりずっと、知りたかった。
救世主は俺じゃない。
「寧ろ、俺はちょっと嬉しいんだ。大体、こんなのを勝手だと思うような奴は、正義の味方じゃないだろ?」
彼女は一拍置いて、くすっと笑ってくれた。気を抜いて一息つく。
正義の味方……本当、笑える。
「なら、もう1つ、わがまま言っても?」
「勿論。大歓迎」
魔術師はくるっとターンして、極めて言いにくそうに顔をしかめた。
「後ろって……なんか違う気がするんですけど」
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