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途切れた言葉
その夜、エフ氏は電話で呼び出された。
「もうじきに亡くなるかもしれない」
終末期の老人を抱えている家族からの呼び出しだった。エフ氏は医師である。自宅で最期を迎えたいという老人の希望にこたえるため、その老人宅へ向かった。
「これはどうも先生」
エフ氏が老人宅へ着くなり、老人の長男が出迎えた。小ぢんまりした一軒家である。妻に先立たれて独り暮らしだというから、これでも十分な広さだろう。
「先生、なかへどうぞ」
長男の招きにしたがって室内へ入る。ベッドに、まさしく終末期といった老人が横になっている。その老人を取り囲むようにして家族が勢ぞろいしていた。
「お父さん、先生が来てくれたよ」
次女が老人の手を取って言う。
「お父さん……」
長女はハンカチで目頭を押さえていた。
「先生、親父は――」
「そうですな」
エフ氏が老人の脈をとる。もうここまで来ると時間の問題だろう。エフ氏は医師としてそう判断した。
「覚悟は持っていたほうがよろしいでしょうな」
「そうですか」
亡くなるとは言っても、野垂れ死ぬわけではない。しっかりと自分の子どもたちに見守られている。しあわせな最期と言って差し支えないだろう。
当の本人はというと、かすかに空気の漏れる音が聞こえるかどうかといった容態。半分、死の世界に浸かっているといってもいい。そんなとき人間は、なにを考えているのだろう。
ぼんやりとエフ氏が考えていると、その死にかかっている老人がうっすら口を開いた。
「親父!」
その様子に気がついた子供たち三人が、いっせいに枕元に集まる。
「わ、わしの、コレクション、を……、お前――」
ここまで言いかけて老人は、まさに魂が抜けてしまった。老人の身体が重力に任せるまま、ベッドに沈む。
「お父さん? お父さん!」
長女が泣き崩れる。その長女を次女が支えていた。
「先生、親父は」
エフ氏は老人がたしかに亡くなったのを確認して告げた。
「ご臨終です」
こうしてこの夜のできごとは終わった。
なんてこともない、老人の最期。そのはずだった。
それからしばらくして、またエフ氏は呼び出された。
それも例の家族からの呼び出しだった。
「はて、なにかありましたか」
「とにかく来てください。たいへんなことになっていまして、とにかく来てください」
電話口の向こうで長男が大きい声を出す。
「はあ、わかりました」
エフ氏としては、もうやれることなんてないのだが、長男の剣幕に押されて、行くことを承知してしまった。
「やれやれ、まいったものだ」
「先生、早く。こちらです」
エフ氏が老人宅につくなり、長男に腕をつかまれる。そのまま部屋へと連れていかれた。
「いったい、なんだというのです」
小さい部屋に老人の子ども三人が勢ぞろいしている。あの夜亡くなった老人の遺影が、部屋の隅に置いてあった。あの夜は感じなかったが、老人が独り暮らしをしていた一軒家に四人も集まると、なかなか窮屈だ。
「先生、父が臨終のとき、なにを言っていたか覚えてますか」
部屋に入るなり次女が詰め寄ってきた。
「はあ、そういえばなにか言っていたような」
「遺産はお前にやるって言ってましたでしょう? この私に」
長女が割って入る。
「そんな感じでしたかね……。どうもはっきりとは」
「お前たち、やめないか、みっともない」
長男がふたりを制する。
「いや、呼びだしておいてどうもすいません、先生」
「これはいったいどういうことなのです」
エヌ氏は困惑した。失礼な話だが、この老人にまともな遺産があるとは思えなかった。しかし、この三人の様子を見る限り、どうも相続争いのようではないか。
「実はですね」
次女が話し出した。
「父親が死ぬ間際に言ったコレクションという言葉が気になって調べてみたんです。この私がですよ」
「はあ」
「そしたら、隠し財産のようなものを私が見つけまして。もっとも父が趣味で集めていた骨董品なんですけど。詳しい方に調べてもらいましたら、そのなかのひとつが、かなりの値がするらしいのです」
「はあ」
子どもたちも知らなかった遺産があったということらしい。おそらく亡くなった老人も、大して価値があるものだとは思っていなかったのだろう。
「父は私に譲ろうとしていたんですよ。それで最後の力を振り絞って、この私に遺言を」
長女が言う。
「よくもそんな嘘がつけますね。私が見つけたんですから私のものです」
次女が声を張った。
「まあまあ、父さん自慢のコレクションを売ろうとするのはよくない。ここは長男の私が預かるというのが自然の流れじゃないか」
長男が落ち着いた様子で言う。
「先生、言ってやってください。あの夜、父が私に言った言葉を」
「まあ! 姉さん、いい加減にしてください。見つけたのは私なんですから」
「あなたは見つけただけじゃない。私たちにバレなければ、そのまま持ち去ろうとしてたくせに」
「なんてことを言うんです。自分の汚さを棚に置いてよく人の悪口が言えますね」
「お前たちは金に目がくらんでいるんだ。いったん落ち着け。いったん私が預かって、みなが冷静になったときに考えればいいだろう」
「兄さんの言うことは信用できません。なんでも借金があるそうじゃないですか」
「なにを言うか。お前こそ子どもの教育費に使うつもりだろう」
「本当に汚い。汚いですわ!」
まさに泥沼である。
小さな部屋に三兄弟の罵声がとどろく。
「やれやれ、まいったものだ」
エフ氏が老人の遺影を見やると、写真の老人はなにも言わずほほ笑んでいた。
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