爾前 井戸の開

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爾前 井戸の開

道がある。 途切れることなく東西に伸びる長い山の南。山と平行に走るようにして、一本の道が存在している。 (せま)く、薄暗く、どこか(あい)(しゅう)さえ感じるような道。 車同士が対向するならばどちらかが他人の敷地を踏まなければならず、両側に連なる住宅に(さえぎ)られた陽光は弱々しく衰退している。 そんな道。 少年にとってその道は、庭とも言えるほどに近しいものだった。 小学校への通学路でもあったから毎日のように(とお)っているし、小さい頃は父親とよく散歩をしていた。 しかしそんな少年にも、道の中に一箇所だけ不思議に感じる場所があった。 どこまでも続くと思えるくらいに隙間無く並ぶ住宅が、ある場所を(さかい)にぽっかりと空間を空けているのだ。長さにして十メートル程の短い距離ではあるものの、前触れもなく唐突(とうとつ)に途切れている(さま)はどこか異質な雰囲気を放っていた。 その南側には雑草が生い茂っていて『売り地』と書かれた(さび)だらけの看板が居座り、北側には誰も住んでいない小さな平屋が建っていた。だがその姿は住居と呼べるものではなく『廃屋』といった表現が適切なほどにくたびれたものだった。 その光景だけでも充分異様ではあるが、少年が一番不思議に思っているのは廃屋の両隣の家だった。 立ち並ぶ住宅の塀は、だいたいどの家もブロック塀を五段積んだ程度の高さとなっている。それなのにその二件の家はブロック塀の上に更にフェンスを設置しており、その高さは二メートル程まで達していた。ブロック塀とフェンスを組み合わせること自体はおかしいことではないのだが、その二件は廃屋側だけをそうしていたのだ。反対側と山側にはフェンスは設置されていなかった。廃屋の土地には短い雑草しか生えておらず、ブロック塀を越えて来るような草木は存在していない。それなのに、二件の家は何かから身を隠すように塀を高くしていた。子供ながらにそれが不思議でしょうがなかった。 その日、少年はいつも通り(くだん)の道を歩いて下校していた。ただ、廃屋の前を通りかかったところで、いつもとは違う光景を()の当たりにした。 廃屋の土地で草抜きをしている老婆がいたのだ。 少年は驚いた。屋根に穴まで空いているその家には、誰も住んでいないと思っていたからだ。だが親に廃屋のことを詳しく聞いたわけでもなかったため、人が住んでいないのは自分の思い込みだったのかも知れないと考えた。 ならば、と少年は老婆に「こんにちは」と声を掛けた。そのまま通り過ぎるという考えも(よぎ)ったが、近所の人には挨拶をしなさい、という親からの教えの方が(まさ)った。 老婆もまた少年に挨拶を返したが、そこで言葉は終わらなかった。 「ぼうや、ちょっとお願いがあるんだけどいいかい?」 少年はその声に立ち止まり、振り返った。 老婆は少年を真正面に捉えるようにして、気の良さそうな笑顔を浮かべていた。 なんですか、と少年が聞くと、老婆は右手を差し出してその指を開いた。手のひらには少し汚れた白い棒のようなもの――言うなれば犬用の骨の形をしたおやつによく似たもの――があった。 「これを、あの井戸に放り込んでくれんかねぇ……?」 少年は、老婆の発言の意図を測り兼ねた。そもそも何処に井戸があるのか、それが分からなかった。 少年が困惑しているのに気付いたのか、老婆は廃屋の方を指差して「あそこにあるんだけどねぇ……」と呟いた。 老婆が指し示した先を見ると、確かにそれはあった。廃屋の扉脇に、散らばった木材や雑草に紛れて()(げた)のようなものが見えていた。少年は今まで廃屋をまじまじと見たことがなく、井戸の存在には気付いていなかった。 何で自分でやらないんだろう、という疑念は浮かんだが、別段大したことではないため少年は快諾(かいだく)して棒を受け取った。棒は思っていたよりも重く、犬のおやつとは似ても似つかぬ硬さを持っていた。 やや小走りで井戸らしきものの近くまで行くと、本当にそれが井戸であることを認識できた。余程古いのか腐って崩れた部分が随所に見られたものの、それは昔ながらの木製の井桁を形成していた。 上部には数枚の細い板で(ふた)がされていたので、少年は中央の二枚ほどを横にずらした。するとその奥に、苔むした井戸の丸い穴が覗けた。穴の中は吸い込まれそうなほど黒く、どこまでも続いているかのように見えた。 少年はその井戸が放つ不気味さに不安を覚えて背後を振り返ったが、老婆は同じ場所で相変わらず気の良い笑顔を浮かべていた。 さっさと終わらせよう。 そう思い、老婆から受け取った棒を井戸に放り込んだ。 ほどなくして、少年は違和感を抱いた。 いつまでたっても音がしない。井戸に水が無いにしても、底に当たったときに何かしらの音が出てもいい筈なのに。 少年はそこで初めて、してはいけないことをしてしまったんじゃないか、という思いに(おそ)われた。 慌てて(きびす)を返して老婆のもとまで走り寄り、投げ入れた物が何だったのかを聞こうとしたところで少年は驚愕(きょうがく)した。 老婆の笑顔。 それは先程までのものとは全く異なる、ひどく(ゆが)んだ笑みだった。 口の端と目尻が繋がる程の深い(しわ)が走り、その歪みに引っ張られて顔中に細かい皺が刻まれている。そうして無数の皺が形作る肌の起伏は、虫の幼虫を連想させるかのように微かに蠢いていた。 どこまでも不気味で、あまりにも恐ろしい、狂気と悪意に満ちた笑顔。少年は、老婆のその人間離れした表情に言葉を失った。 そんな少年に向かって、老婆は口を開いた。 「ありがとうね、ぼうや。お礼に――」 瞬間、少年は逃げるように走り出した。無我夢中で走った。もう一秒たりとも老婆の(そば)には居たくなかった。 百メートル近く走ったところで、少年は動きを止めた。驚きのあまり、異常なほど速く身体に疲れを感じた。背中のランドセルもいつもより重いように思えた。呼吸を整えながら振り返ると、既に老婆の姿は消えていた。だが、未だに身体中を支配する恐怖が安心感を与えてくれなかった。心臓の辺りを手で(つか)みながら、幾度となく周囲を見回した。どこを見ても視界に老婆が映り込まないのを確認して、やっと歩きだそうとした瞬間。 『今回はぼうやはやめといてあげよう』 すぐ背後どころか、耳に口を押し付けられているかのような近さから声が放たれた。 反射的に少年は走り出していた。声にならない悲鳴を上げながら、どこを走っているのかも分からないくらいに必死に走り抜けた。途中数台の車とすれ違い、気が付いたときには自宅の玄関前までたどり着いていた。 全身がざわめいて、鼓動が耳の奥でけたたましい音を立てていた。もう老婆の気配は感じられなかった。少年は崩れるように尻餅をついて、全力で呼吸を繰り返した。 やがて疲労が薄れるとともに思考が落ち着いてきたとき、ふとした疑問が()き上がった。 今さっき走り抜けた馴染みの道は、狭いくせに車の交通量は多い。叫びながら走ったのは二分にも満たない時間だったのに、少なくとも五台の車とすれ違った。それなのに老婆と話していたときは、たったの一台も車は通らなかった。 ぞくりと背筋に冷えを感じた。だが、これ以上は先程の(かい)()を思い返したくなかった。心だけでなく体も含めた全てが、考えることを拒絶していた。 ほどなくして少年は立ち上がり、よろける足で家の中へ向かいながらある決断をした。 ――次から遠回りしなきゃ、と。
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