一章 往往の界

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六 空を埋めつくす(あか)が無数に()み渡り、雲のみならず校舎をも染め上げている。その光が作る世界は暖かな空気を持つ(かたわ)ら、どことなく(わび)しさを感じさせるようでもあった。それは長く伸びた影が、深い(くろ)を生み出しているせいなのかも知れなかった。 「おまたせ、みっちゃん」 「おまたせ、美月」 茜と太一は、校門前に(たたず)む美月に声を揃えた。二人に気付いた美月は、笑顔で振り返って手を上げる。 「あたしもさっき来たとこ。――じゃ、帰ろっか」 美月はそう言って、茜のすぐ隣を(じん)()った。 部室での一件の後、茜は何も考えなくて済むように用具の後片付けに没頭(ぼっとう)した。そうするうちに胸の高鳴りは静まっていき、部活終了の挨拶のときには平常心を取り戻していた。着替えた後に会った太一は拍子抜けするくらいいつも通りで、茜は自分の取り越し苦労を痛感して今に至っている。 三人が歩き出そうとしたところで、校門のすぐ内側から聞き覚えのある声が飛んできた。 「部活お疲れ様」 声の主は犬飼だった。犬飼は朝会ったときと同じ姿で、同じように優しそうな笑顔を浮かべている。その手に黒いビジネスバッグを持っていることから、犬飼も今から帰るところなのだろうと推察(すいさつ)できた。 「お疲れ様です。い、犬飼先生も今から帰るんですか?」 美月が緊張を含んだ声を弾ませた。 「そうだよ、岩崎さん。あと……里谷さん……で、合ってるよね?」 自分の名を呼んだ犬飼の声に、茜は心臓が脈打つのを感じた。 「あ、はい。そうです」 「……工藤先生から二人が仲良いって聞いてね。それでなんとなく覚えてたんだよ」 茜が目を丸くしていたのに気付いたのか、犬飼は丁寧に説明を加えた。その後、視線を太一に向けて言葉を続ける。 「君は……六組じゃないよね?」 「あ、はい。おれ……僕は、三組の藤峰太一っていいます。二人とは幼馴染で家も近所なんです」 太一も何故か少し緊張している様子で返答した。 「高校生でも仲が続いてるってことは……親友ってやつかな? 僕はそこまで仲が良い友人がいなかったから、なんだか羨ましいよ」 犬飼がそう言うと、美月が照れくさそうに口を開いた。 「いやぁ、それほどでもないですよぉ」 「いやいや、何で美月が照れてんだよ。三人全員に言ってるんだぞ」 間髪入れずに太一が反応した。 「三人全員ってことはあたしも入ってるってことでしょー?」 「そりゃそうだけど、そこまで照れることでもないだろ……」 また始まった、と茜は思った。ちらりと犬飼を覗き見ると、二人のやりとりを微笑ましく眺めているようだった。 ふいに少し強めの風が四人の間を通り抜けていった。わっ、と美月と太一が声を上げる中、舞い上がってきた砂埃に茜は堪らず目をつむる。そのとき風の音に混じって、何か別の音が耳に届いた気がした。 「あれ……?」 「どうしたの茜?」 疑問の声を出した茜に美月が聞いた。 「何か音が聞こえなかった?」 「音? なんにも聞こえなかったよ。太一は?」 美月が聞くと、太一も「いや、何も」と言って首を横に振った。 「気のせいかな……?」 「どんな音だったの?」 美月の質問を受けて、茜は唇に手を押し当てて俯いた。そうして今しがた聞こえた音の輪郭(りんかく)を思い起こしていく。 「なにか……風鈴みたいな……、ちょっと違うかな……。金属……そう、金属が擦れるような音……」 そう言った瞬間だった。 茜は自分を見つめる強烈な視線を感じた。目が合ったわけではない。現に茜の視界には、地面とそれぞれの足元しか映っていない。それなのにその視線は、茜の身体を(えぐ)って貫くほどに『見ているぞ』と激しく主張しているようだった。全身から血の気が引いて、鳥肌が立っていくのが分かる。緊張から喉も詰まっていき、浅くなる呼吸に我慢できずに視線に向かって顔を振り上げた。 「ん? 大丈夫かい里谷さん? なんだか顔色が悪いよ」 茜の視線の先にいる犬飼は、きょとんとした目で心配そうに声を出した。 ――そんな……。 茜は信じられなかった。視線は確かに犬飼の方からだった。犬飼が放っていたに違いないと思っていた。それなのに茜が目を向けた瞬間に、今の今まで感じていた突き刺すような視線は跡形もなく消え去っていた。 「茜、大丈夫?」 「里ちゃん……?」 緊迫した形相(ぎょうそう)の茜に、美月と太一も心配そうに声を掛けた。二人はその表情を固くして茜を見つめている。 「あ……、ごめんね。この前観たホラー映画思い出しちゃって……。自分にしか聞こえない音が聞こえるっていうのだったから……」 茜は二人に余計な心配を掛けまいと(とっ)()に取り(つくろ)った。 「なんだ、びっくりするじゃない」 茜の言葉に美月が息を漏らした。その隣で太一も「心配したよ」と、表情を和らげる。 ごめんね、と茜はもう一度言いながら、二人に笑顔を向けた。だがその視界の中には、常に犬飼の姿を捉えるようにしていた。まだ警戒を()いていないことが理由だが、もうあの視線を向けられたくないという怯えも含まれていた。犬飼はそんな茜の気持ちには気付かない様子で話を切り出した。 「じゃあ、そろそろ帰ろうか? なんだか捕まえる感じになって悪かったね。まだ明るいけど、まっすぐ帰るんだよ」 「小学生じゃないんだから大丈夫ですよ先生。一応、男子もいるし」 美月がそう返すと、犬飼は少し押し黙った。そうして一拍の()を置いて、淡々とした口調で話し始めた。 「……古い言葉だけど、今みたいな黄昏時(たそがれどき)逢魔時(おうまがとき)って言ってね。良くない事が起こる時間だと言われてるんだ。だからまあ、早めに帰ることに越したことはないよ」 「え! 先生ってそういう感じの話信じる方なんですか?」 美月が驚いた声を上げると、犬飼は指で頭を掻きながら平坦な声を続けた。 「あまり信じてはないけど、昔からの迷信っていうのは案外馬鹿にできないもんでね。まあこれは、美術の(たん)()先生の影響でもあるんだけど。……あの人、怪談話よくしない?」 あーそうですね、と美月は同意して、犬飼と会話を弾ませる。太一も二人の話を興味深そうに聞きながら、合間合間で少しだけ話に参加していた。 茜はその光景を黙って見つめていた。さっきの事が頭から離れず、犬飼に対する疑心(ぎしん)が対話を拒絶していた。 「――おっといけない、また話し込んじゃってるな。もう終わりにしようか? たぶんこういう話は明日もすることになるから、良かったら楽しみにしといてよ岩崎さん」 犬飼がそう言って笑い掛けると、はい、と美月が嬉しそうに頷いた。 「あ、そういえば里谷さん」 「え……は、はひ」 唐突な犬飼からの呼び掛けに茜は驚き、返事をする声が裏返った。その声に美月は隣で薄笑いを浮かべている。いつもであれば美月に一言苦言を呈するのだが、今は犬飼の言動に心が(とら)われて余裕が持てないでいた。 「いつも三人で帰ってるのかい?」 「……はい。個別の予定が無い限りは、いつも一緒です」 「そう、……それならいいんだ。じゃあ、また明日」 犬飼がそう言うと、美月と太一も「さようなら」とバラバラに挨拶を返した。その声に犬飼は手を振りながら背中を向け、校舎からは少し離れた職員駐車場に向かって歩き出した。 茜は不思議に思っていた。警戒心むき出しで身構えていたにも拘らず、聞かれたことは三人で帰るのかどうかだけ。誰に聞いてもいいことなのに、何故自分に聞いたのだろう。そんな答えの出ない問いに言い知れない不吉さを感じながら、犬飼の後ろ姿を直視していた。やがてその姿は校舎を取り巻く塀の奥に消えていった。 「あ、ワンコだ」 背後で発せられた美月の声に振り返ると、茶色い毛の犬が茜達に向かって歩いてきていた。 「野良犬かな? 珍しいなぁ」 太一の言葉を聞いて、茜は朝の自習時間の事を思い出した。あのとき窓から見えた犬もこんな感じの犬だった筈だ。 おーい、と呼び掛ける美月を完全に無視して、野良犬はすぐ横を通り過ぎていく。ショックを受ける美月を太一が小馬鹿にするように笑うと、また二人の小競り合いが始まった。そんな二人の口喧嘩を聞きながら、茜は野良犬が犬飼と同じように塀の奥に消えていくのを見つめていた。 少し妙だと感じたのは、その野良犬は背中の一部が膨らんでいて白い毛で(おお)われていた。美月達が特に触れなかったため、そういう犬もいるのかな、と茜は思って、気にしないことにした。そんなことよりも、今はまだ犬飼への不信感が心の中を支配していた。 二人の言い争いが一段落して、三人はいつも通り談笑しながら帰り道を歩いた。学校から十五分程歩いたところで太一と別れて、茜と美月は引き続き薄明(はくめい)の中を歩いていく。 学校から見ると、太一、美月、茜の順番でほぼ等間隔に家が存在している。それぞれの家は時間にして徒歩五分の距離で、どの家も狭い道路沿いに建っていた。 薄暗いその道は普通の感覚であれば恐ろしい雰囲気なのだろうが、毎日通っている茜達にしてみれば何の変哲もない通学路だった。だから太一と美月の家の間にあるその場所も、微かに疑問に思う部分はあれど別段どうというわけではない場所だった。なのに何故だかこの日は、(わず)かに異質な空気が漂っていた。 「あれ? ここってこんなに暗かったっけ?」 通学路の途中にある(さび)れた廃屋の土地の前で、茜が立ち止まって言った。太陽が沈んで薄明かりの世界になっているとは言っても、立ち並ぶ住宅の輪郭はくっきりと見えるくらいには明るい。それなのにその廃屋が佇む土地は、周りに比べて影が濃くなっているように思えた。 逢魔時。 犬飼の言葉がふと頭に浮かんだ。 「んー……、どうだろ? いつもと一緒の気はするけど……」 そう言いながら美月も足を止めた。 じゃあただの思い過ごしかな、と茜が呟く横で、美月は(せわ)しなく顔を動かして廃屋の土地を見回した。 「でもまあ、ここって変なとこだよね。ずっと取り壊さないし、向かいはずっと売地だし、隣の塀は妙に高いし、何より井戸が怖い!」 矢継(やつ)(ばや)に不審な点を挙げる美月に、茜の悪戯心(いたずらごころ)が刺激された。 「あれー? じゃあみっちゃんは、ずっとここが怖いって思ってたんだ?」 茜の言葉に、美月は「うっ」と(うな)って顔をしかめた。 「だ、だ、だって、井戸から変なのが出てくる映画とかあるでしょ? あんなの観たら想像しちゃうじゃん」 「うんうん、想像しちゃうから怖いんだねぇ」 「べ、別に怖くなんてないって! ちょっと変なとこって思ってるだけ!」 「わかったわかった。そういうことにしといたげる」 「あー、もー……茜のバカ!」 むくれてさっさと歩き始めた美月を見て、言い過ぎた、と茜は反省した。そうして「ごめんごめん」と美月に謝りながら一緒に歩いていく。 なんとか許してもらえたときには、もう美月の家の前だった。バイバイ、と互いに言い合って、茜は一人で歩き始めた。 茜が玄関ドアを開けて「ただいま」と言うと「おかえり、先にご飯食べるでしょ?」と母親の声がリビングの方から飛んできた。 「うん、明日の準備したらすぐ行く」 茜はそう言って自分の部屋に入り、鞄を机の上に置いて中身を入れ替えていく。筆箱の中を確認したときに、ペンが一つ無いことに気付いた。茜の脳裏には、部活での備品チェックの場面が浮かんだ。おそらくあのとき太一が来たことに慌てて、部室に落としたのだと思った。 ――明日、探さなきゃ……。 茜はそう考えながらリビングへと向かった。家の中には茜が好きな生姜焼きの匂いが広がっている。今はただ、頭の中を真っ白にして空腹を満たしたいと考えていた。
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