ニ章 里谷茜の怪

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ニ章 里谷茜の怪

一 火曜日。 年季の入った木造の平屋の入口脇に、真新しいインターホンが設置されている。(あかね)がそのボタンを押すと、ほどなくして玄関の引き戸が音を立てて開かれた。中から顔を出した女性は、()(つき)そっくりの笑顔で快活(かいかつ)な声を弾ませる。 「おはよう、茜ちゃん」 「おはようございます」 挨拶を返す茜に美月の母親は「ちょっと待ってね」と言って、家の中に振り返って一際大きな声を響かせた。 「美月ー! 茜ちゃん来てくれたよー! あんた、たまには前もって準備済ませときなさい!」 「はーい、分かってるってー」 「分かってないから言ってんでしょう」 美月は母親の言葉に「もー」と返しながら、慌ただしく走りこんできた。 「おはよう茜、おまたせ!」 「おはよう、みっちゃん」 変わらない笑顔で陽気な声を放った美月に、茜も笑顔で答えた。 そうして二人は、いってらっしゃい、と言う美月の母親に挨拶を返して家を後にした。 「陽向(ひなた)くん、今日も早かったんだね?」 通学路を歩き始めたところで茜が聞いた。 岩崎(いわさき)陽向(ひなた)は美月の六歳離れた弟で、姉に似て時間にルーズなところがあった。そのため小学校へと出発するのはいつもギリギリで、美月を迎えに来る茜とは毎日のように顔を合わせていた。だが昨日を含めたこの二日間は勝手が違い、既に陽向の姿は家の中にはなかった。 「そうそう、あいつ訳分かんないの。昨日からいきなり、俺は足腰を鍛えるんだ、って言ってさー。学校とは反対方向に走って行くんだよ? 全く……馬鹿の考えることは理解できないわ」 美月が(あき)れたように言うのを、茜は微笑ましく聞いていた。口では(かろ)んじているものの、弟想いの姉の顔が透けて見えたからだ。そうでなければ、陽向が家を出た後の動向などいちいち確認しないだろう。 そんなことを考えながら少し歩いたところで、茜はふとその歩みを止めた。それに気付いた美月が、振り向きざまに口を開く。 「やっぱりなんか変な感じ?」 「――ううん、そうじゃないよ。昨日と違って普通過ぎるから、逆に気になっちゃって……」 そう答える茜の視線の先には、くたびれた平屋の廃屋がポツンと建っている。陽光と外気に(さら)されて劣化したその姿は、あまりにもいつも通りの光景だった。 「実は茜もちょっと怖がってたんじゃない? ほら、気持ち次第で見え方が変わったりもするでしょ?」 「んー……、そっか……。そうだね、もしかするとそうなのかも」 美月の言葉も一理ある、と茜は思った。昨日の自分は犬飼(いぬかい)との一件で、普通の精神状態ではなかった。その影響で、いかにも何かありそうなこの場所に心が反応しただけなのかも知れない。 「絶対そうだって。まっ、何にも感じないならそれでいいじゃん」 楽観的な口調の美月に茜は「うん、そうだね」と返して、再び歩き始める。 先へ進むと()(いち)が家の前で待っており、三人は互いに挨拶を交わしてから学校へと向かった。 光を(とう)()する薄雲(うすぐも)が拡がる空を見上げながら、今日も蒸し暑くなりそうだな、と茜は感じていた。 授業終了を告げるチャイムと共に号令が掛かり、教室内に椅子と床が(こす)れる音がひしめいた。 (たけ)()が教室から出ていくと、茜のもとに騒がしい足音を立てながら美月が駆け寄ってくる。 「茜、行くよ!」 「……そんなに急がなくてもいいんじゃない?」 焦った様子の美月に茜は返答した。主語が無いよ、といつも通りに返そうとも思ったが、その言葉は飲み込むことにした。美月に落ち着きがない理由は分かりきっていたからだ。次の授業は美月がお待ちかねの美術である。 「こういうのは先手必勝だって」 「まだ来てなかったら、先手もなにもないような気が――」 「まあまあいいじゃない。いないかもってことは、いるかもってことでしょ?」 そう言う美月に(なか)ば押し切られる形で、茜は席を立った。 茜と美月は二人とも美術を選択していた。美月は『得意じゃない』という単純な理由で、選択(せんたく)()から音楽と書道を除外した。茜も似たようなものだったが、一番の理由は別にあった。他の二教科とは違って、美術は作品を仕上げてしまえば残りの時間をぼんやりと過ごせる。そんな(たい)()思惑(おもわく)が含まれていた。 「美術選んどいて良かったぁ、あたしナイス!」 一階へと繋がる階段を下りながら、美月が噛みしめるように歓喜の声を漏らした。 「うん、ホントそうだね」 茜はそう言って(どう)調(ちょう)したものの、その胸中(きょうちゅう)には形容(けいよう)(がた)い複雑な感情が(うず)()いていた。 犬飼の姿を見ると、茜の(のう)()には否応(いやおう)なく昨日の出来事が(よみがえ)った。今でもあの視線の残留物(ざんりゅうぶつ)が、体のどこかに()(ちゃく)しているような感覚さえあった。だが朝のホームルームでの犬飼には全くと言っていいほど不審な点はなく、自分が気にし過ぎているだけなのかも知れないとさえ思えた。茜には犬飼という存在の何もかもが未知で、その一端(いったん)すら()(はか)ることができなかった。そんな不確かな不安を(いだ)きながら、中庭の砂利道を歩いていく。 隣を歩く美月にこの不安を相談できれば、どんなに楽になれるだろうとも考えた。けれども美月の犬飼への想いに横槍(よこやり)を入れるようなことはしたくなかった。 美術室は校舎(こうしゃ)北棟(きたとう)一階の西端(せいたん)にL字型に隣接(りんせつ)しており、北棟と(みなみ)(とう)(つな)ぐ連絡通路沿いに入口があった。南棟二階の東側に教室がある茜達からすれば、教室横の階段を下りて中庭を斜めに通り抜けたらすぐのところに位置している。 茜達が入口のドアを開けると、静まりきった部屋の中にドアの(きし)む音だけが(はん)(きょう)した。 「えー、誰もいないのー……。一番乗りじゃん……」 「だから急がなくてもいいって言ったじゃない」 残念そうにぼやく美月に、茜は冷静に返した。その後も「あーあ……」と深いため息をつく美月を(なぐさ)めつつ、犬飼が居なかったことにほっと胸を()()ろしていた。 それからは特にすることもないので二人で談笑していると、ちらほらと他の生徒も集まり出した。そうして授業開始の二分程前に、美術教師の(たん)()(まさ)()と一緒に犬飼が部屋に入ってきた。 きたきた、と()()つ美月に笑顔を向けながら、茜は犬飼の姿を目で追っていた。やはり朝と同じく変わった様子は感じられなかった。このまま思い過ごしで終わることを茜は願っていた。 最初の三十分間は、反田主導の元で前回からの続きである色彩画を描き進めた。茜は既に仕上げていたので、美月の絵を見ながら話し相手になって過ごした。犬飼はといえば、何やら準備室の方から大荷物を運んできていた。 進行が犬飼にバトンタッチすると、その荷物の正体が明かされた。剣、鎧、盾といった中世の騎士を思わせる衣装や、杖やローブ等の童話に出てくる魔法使いのような衣装が入っていた。それ以外には、SF映画を連想させる機械の腕みたいな物もあった。それらの全ては、大学の造形(ぞうけい)サークルで仲間と制作したのだと言った。 「これを使って一風(いっぷう)変わったクロッキーをしようか。(ひと)ポーズ五分くらいでいいかな?」 そう言った犬飼はテキパキと準備を進めていき、自分を取り囲むように生徒を配置させた。そうして自ら衣装を身に着けて、様々なポーズを取っては絵を描かせた。犬飼は衣装の役に入り込んだようにポーズを取り、生徒達からは大いに受けていた。犬飼を昨日から(いぶか)しんでいた茜でさえも、場の雰囲気に(かん)()されて徐々(じょじょ)に警戒心を(やわ)らげていた。合間に犬飼の雑談を聞きながら八ポーズ描き終える頃には、授業の残り時間は十五分を切っていた。 「ようし、じゃあ今日はこれで終了。画材片付けて、机と椅子も戻そうな」 生徒に混ざってクロッキーを描きあげた反田がそう言うと、皆一斉に後片付けを始めた。机を運ぶ雑音が鳴り響く中で、浮かれたような話し声が飛び交っている。 反田が少し早めに授業を切り上げたときは、怪談じみた話をするのがお決まりとなっていた。それを楽しみにしている生徒は案外多くいたが、茜はさほど興味を持てずにぼんやりとした時間を過ごすのが(つね)だった。 ただ、今皆が注目しているのは反田ではなく犬飼だろう。先程までの授業で、犬飼への期待値が上がっていることは間違いない。茜がそんなことを考えていると、美月が顔を寄せて茜の耳元で(ささや)いた。 「茜、やっぱり昨日言ってたとおり犬飼先生が話すっぽいよね?」 「たぶんね、反田先生もなんだかニヤニヤしてるし……」 茜が反田の表情に目を向けながらそう(つぶや)くと、ちょうどその(たくら)んだ顔のままで反田が口を開いた。 「今日はせっかくだから、実習生であり教え子でもある犬飼くんに小話を披露してもらおう。さあ、拍手」 反田の言葉に、生徒達から拍手と歓声が飛んだ。それを受けて照れたように首を(かし)げた犬飼が「いやぁ……なんだか恥ずかしいね」と言いながら前に立った。 「恩師の顔に泥を塗る訳にもいかないからね、厳選(げんせん)した話をさせてもらおうかな……」 犬飼は(うつむ)()(げん)にそう言うと、首の後ろに手を当てて(じゅっ)(こう)するように沈黙した。そうして(わず)かの()を置いて「じゃあ、あの話にしよう」と言い、その視線を生徒に向けながらゆっくりと口を開いた。 「最初に……ちょっと質問をしようか」 その瞬間、茜は(かす)かな変化を感じた。何がどうと確信を持って言えるものではなかったが、なんとなく空気の密度が増したような、そんな変化だった。それと同時に、ある疑念が急速に膨らんでいくのも感じた。 何故自分は犬飼への警戒を(ゆる)めていたのだろう。 確かに犬飼の雰囲気は明るく、授業も面白いと言える内容だった。しかしそれが警戒を解く理由にはならない筈だ。 ――他のみんなは? 茜はそう思って周囲に視線を巡らせた。だが特段変わった様子はなく、違和感を抱いているのは自分だけだという事実を思い知らされた。 そんな茜の焦りには気付く筈もなく、犬飼の淡々とした言葉は続いていく。 「みんなは……この世界が一つだけだと思うかい?」 その抑揚(よくよう)のない低い声は、聞く気ではなかった茜の耳に染み込むようにすんなりと入ってきた。 聞かなければいけない、何故だかそう思えるほどに耳の中で強く()(だま)していく。 ――それなら……聞いてみようかな……。 犬飼の声には悪意のようなものは感じられない。ならばこの話を聞いて犬飼という人物を()(さだ)めてみてもいいかも知れない。 そう茜は思った。 「もしかするとどこかに、全く別の世界があるかも……って考えたことはないかい?」 犬飼が話し始めた内容は(とっ)(ぴょう)()もないことなのに、妙な説得力があるようにも思えた。それは犬飼の声が放つ独特なリズムやテンポがそう思わせるのかも知れなかった。そんな中で疑問に感じたのは、誰も犬飼に質問の声を上げないで(せい)(ちょう)していることだった。 ――みっちゃんなら、何か言いそうなもんなのに……。 そう思って茜は横目で美月を覗き見たが、表情に可怪(おか)しいところはなく話に集中しているように見えた。 もしかすると犬飼は他者の意識を惹き付ける話術を知っているのではないだろうか。かの有名な独裁者も、演説で人心を掴んだという逸話が残っているくらいだ。 仮にそうだとすれば、興味のない話を遮断する自分には効果が薄いのでは、と一応の納得がいくようにも思えた。 そう思案する茜のもとに、再び犬飼の声が届けられる。 「この話はね、そんなちょっとしたファンタジーな内容が入った話さ。じゃあ、本題に進もうか……」 犬飼はそう言って(えり)を正した。 茜はその様子を捉えながら、ふぅ、と静かに息を吐いた。そうして自分の意識を、眼前の男の表情に、言葉に、ゆっくりと集中させていった。
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