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断章 隣家の悔
男は咥えている煙草を指で摘み、灰皿に捻りながら押し付けた。キッチンの蛍光灯から放たれる心許ない明かりが、リビングで腰掛けている彼をぼんやりと映し出している。
彼は疲れていた。
単純作業の連続である工場の仕事や、軽度の認知症と診断された高齢の母親との生活。そのどちらもが充分に疲労を感じるものだったが、最たる理由は別にあった。
「そろそろか……」
彼は壁に掛けた時計を見ながら、吐き捨てるように独り言を呟いた。時計の針は深夜二時を指している。
ほどなくして、窓を隔てた隣の土地から音が聞こえてきた。砂利がぶつかり合うような、じゃらっ、とした微かな音。しかしそれは瞬く間に大きく膨れ上がり、がしゃがしゃ、といった耳に痛みを感じるほどの騒音へと変化した。
――もう、勘弁してくれ……。
彼の願いも虚しく、騒音は止むことなく響き続ける。
隣の土地は、誰も住んでいない平屋の廃屋があるだけだった。彼が物心ついたときから変わることなく存在している。誰の家なのかを親に尋ねたこともあったが、自分と同じく何も知らないようだった。
その土地で夜な夜な騒音が鳴り響き、かれこれ一週間は続いていた。
最初のニ日間は今よりも小さな音だった。そのため彼もさほど気にせずに過ごしていたのだが、五日前から突然に騒々しい音へと変わった。
昨日は堪り兼ねて外に飛び出した。一言物申すつもりで意気込んでいた。だが隣の土地には廃屋が佇んでいるだけで、何も存在していなかった。人や動物がいるわけでもなければ、何か音を立てる物があるわけでもない。それなのに、目の前の空っぽの空間から音が鳴り続けていた。
思えばいくら認知症とはいえ、母親がぐっすりと眠っていたことに疑問を持つべきだったのだ。
音は何もないところから発生し、自分にしか聞こえていない。彼はその事実に恐怖した。一体誰が何のために、そしていつまで続くのか。彼にはその全てが分からなかった。
両耳を塞いでじっと耐えていると、窓の向こうで何かが動いたような気配を感じた。
彼が恐る恐る窓を覗き込むと、塀の奥で何やら黒く大きい影のような物体が波打つように動いているのが見えた。それの動きに合わせるように、がしゃがしゃ、と騒がしい音が鳴っている。
見てはいけない。彼は本能的にそう感じたが、金縛りにでもあったかのように体が緊張して動かなかった。
ふいに黒い影が動きを止めた。何だろう、と彼が目を細めた瞬間、影が勢いよく起き上がる。そして真っ赤に光る二つの目が彼を睨みつけた。
彼は悲鳴を上げて寝室の布団に潜り込み、震えながら息を潜めた。やがて精神が限界を迎えたのか、気を失うように眠りに落ちていった。
翌日彼は、迎えに来たデイサービスの職員に母親を預けた。車に乗り込む間際に「田中さんの息子さんに会ったら、よろしく言っといてね」と母親が言うと、彼は返事をせずに頷いた。
――本当に軽度なのか……?
彼は医者の診断に疑問を覚えながら車を見送った。
廃屋の向こう隣の『田中家』は四十代の夫婦だけが住んでいて、子供はそもそもいないはずである。
たまたま遊びに来ていた親戚の子にでも会ったのだろうか。そんなことを考えながら田中家に目を向けると、廃屋の土地にトラックを駐めた業者の人間と田中家の旦那が話をしていた。
彼は不思議に思い、話が終わるのを待ってから田中に声を掛けた。
「どうしたんですか? 何かの修理ですか?」
「ああ……黒木さん」
田中はそう返事をすると、考えるように押し黙った。そうして彼の方へ歩み寄って、周囲を気にしながら囁く。
「黒木さんは分かりますか? 空き地に何かがいるのを?」
彼はハッとした。
田中はその反応に「おお、良かった」と声を出し、話を続けた。
「妻は何も感じていないようで困ってたんですよ。でも、黒木さんが分かってくれて救われました」
「それはこっちもですよ。自分だけかと思ってましたから……」
「いやあ、それなら話は早いですよ。わたしは、どうもあの視線が怖くてねぇ……」
「視線……」
彼は昨晩の出来事を思い返した。田中はあの赤く光る目のことを言っているのだろう。音のことを言わないのには疑問を抱いたが、話の腰を折るのも気が引けたので引き続き田中の話に耳を傾けた。
「一度目が合ってからというもの、廃屋側に窓が無い部屋に居ても視線を感じるようになってしまって……。ただの気休めなんですがねぇ、塀の上にフェンスでも付けようかと思いまして……」
そうなんですか、と彼は言いながら業者の車に視線を移した。田中が言った通りフェンスと思われる資材が荷台に積まれている。
彼は考えた。田中の言葉が真実ならば、昨晩目を合わせた自分も同じように視線に苦しめられるのでは、と。
「うちもお願いしようかな……」
彼が漏らした呟きに田中が反応を示す。
「うん、その方がいいんじゃないですか? 良ければ聞いてみましょうか?」
「あ、いや、自分で聞きますよ。ありがとうございます」
彼はそう言って、自分の家にもフェンスを設置してくれないかと業者に掛け合ってみた。片面分くらいなら在庫があるようで、早ければ明後日にでも取り掛かれると言われて彼は快諾した。
四日が経過した。
彼はこの四日間夜勤続きだったため、空き地の騒音に悩まされることはなかった。フェンスの工事も順調に進み、つい先程無事に設置されたところである。
彼はリビングから窓を眺めた。窓越しの景色には、塀とフェンスしか映っていない。僅かな隙間はあるものの特に気にするほどではなく、守られているような印象に安心感を覚えた。
「結局来なかったねぇ……」
就寝前になって、母親が妙なことを言った。
「何のこと?」
彼が聞き返すと、母親は「ええとねぇ」と首を傾げて話し始める。
「半月くらい前に隣の土地で、田中さんの息子さんに会ったんだよ。そのとき変なことをお願いされてね。なんだか骨みたいなものを井戸に入れてほしいって……」
母親の言葉を受けて彼はぞっとした。理由は分からなかったが、言いしれない不安が込み上げた。
「な、何でそれ言わなかったんだよ?」
「言おうとしたけど、あんたが聞かなかったんじゃないか」
母親の言うことはもっともだった。彼は認知症が始まった母親の発言を、ほぼ上の空状態で聞いていただけだった。まだしっかりとコミュニケーションも取れるのだが、彼は知識不足からの決めつけで会話を避けていた。
「それで、どうしたんだよ?」
彼が聞くと、母親は少し不満そうに目を細めながら再び口を開いた。
「断る理由もなかったからね、井戸に入れてあげたんだよ。でも、それから二日後くらいにまた会ってねぇ。そのときはこれくらいの箱を置いてきてほしいって言ったのさ」
そう言いながら母親は、三十センチくらいの大きさを身振りで示した。
「置くってどこに?」
「あのボロボロの家の中にだよ」
彼は自分の身体が一斉にざわめき出したのを感じた。話の内容に恐怖を覚えていたが、続きを聞かずにはいられなかった。
「そ、それで?」
「とりあえず言われたままに置いてきたよ。そしたらすごく感謝されてねぇ、十日後に改めてお礼に伺いますって言ったんだよ。今日がその十日後ってわけさ」
母親がそう言った直後、家の呼び鈴が鳴り響いた。彼の心臓は跳ね上がるように震えた。
「あら、来たんじゃないかい?」
そんな馬鹿な。頼み事の内容も訳が分からないが、そのお礼なんて益々理解ができない。それにこんな夜中に来るなんて非常識だ。
彼はそう思いながら母親を制止して「俺が出る」と言って玄関へと向かった。
彼が玄関に到着すると、再び呼び鈴が鳴った。このドアの向こうに得体の知れないものがいるかもしれない。そんな恐怖を押し殺しながら、彼はドアノブに手を掛けた。そうしてゆっくりとドアを開いた。
しかし、そこには誰もいなかった。
彼が安堵したのも束の間、リビングの方から母親の声が聞こえてきた。
「あらまあ、もういらしてたんですねぇ……」
――いつの間に⁉ いや違う、どうやって⁉
彼は驚愕すると同時にそう思った。
ありえないことだった。窓から入るのは鍵を掛けているから不可能である。ガラスを割るにしても音もなく侵入できるはずがない。
困惑する彼の耳に、ぱきぱき、といった渇いた音が聞こえ始める。どちらかと言うと不快なその音に彼は顔をしかめた。そのときだった。
鼓膜を突き刺すような叫び声が聞こえた。少し遅れて、それが母親の声だと気付いた。
「母さん!」
彼が一直線にリビングに走り込むと、既にそこはもぬけの殻となっていた。
――なんだ? 一体なんなんだ?
異常な事態の連続に彼の頭はパンク寸前だった。そんな彼のすぐ背後で、ぱきぱき、と再び不快な音が聞こえてきた。
彼はその音へと振り返った。
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